2007
04.12

言語により存在するものの一つ:季節

 最近は新潟でもスコーンっと晴れた日が多少顔を出し、春らしさが視覚的にも認識されます(残念ながら今週末から下り坂…)。

 一年ぶりにお目にかかる桜の花、青空、そしてぽかぽか陽気に感じ入り、春ってこんなにも気持ちが朗らかになるものなのかと、改めて季節の流れにココロも軽くなります。今ポリクリで忙しいので、ちょっとしたことでも気が休まるというのも嬉しいような哀しいような。。。複雑なところです。

 桜と言えば、ソメイヨシノに代表されるようにすぐに散ってしまう、しかも牡丹のようにボテッと可愛げなく散る(というか落下)のではなく、花びら一枚一枚が散るのを惜しんでいるかのように、眼前の世界を漂いながら舞い落ちていきます(勿論、種類によって散り方は違いますが、大勢の印象として)。その様は古人をして「空に知られぬ雪」と言わしめるほど。風雨にも非常に弱いですね。その花の短命さから「はかなさ」を感じ取ることも少なくありません。

 歌にも詠まれることが多く、日本人が如何に愛していたかということを如実に表しています。特に西行法師の「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」なんてのはそれを端的に表現していると言えましょう(ちなみに彼、この歌の通りに寂滅に入ったそうです。なんて優人…。死ぬ時もこれっくらいの余裕があるんですね)。

 最近はその「はかなさ」のイメージが強いのですが、「花は桜木、人は武士」とも言われるように、サッと咲いておりゃっと散ることから「潔さ」なんてのも連想されます。ものは考えようで、ポストイットの発明みたいなモンです。夭折の作家、梶井基次郎は「桜の木の下には屍体が埋まっている」とおっしゃっております(理由は彼の短編集「檸檬」をお読み下さい)。

 個人的な考えですが、桜には二度の命があるんじゃないかしら。秋~冬の間に裸となった木から、花が咲く。見た目における「無」からあんなに可憐な花を咲かす、ここに一度目の強靭な生命を感じ取れます。咲いた花は間もなく散り、多くの人々に否応無く哀愁を与えます。が、桜は花の次に青々とした、活気溢れんばかりの葉が茂ります。葉桜なんて、、、と思われるかもしれませんが、その姿を見てみると何処か威厳に満ち、桜としての自負がある、そんな気がします。そこに、露華の如く眩しく生き生きとした第二の命がある。そんなことを勝手に考えています(桜自身はいい迷惑かしら)。

 花から葉へ移ろう間の桜、これまたスキ。二つの命が混在する、何処かしら神秘的なものをワタクシに印象付けてくれます。

 蕾の桜、満開の桜、散る桜、葉桜、そして枯れ桜。。。そのどれもが見る人にそれぞれの思いを抱かせる。桜が永きに渡り愛されてきた理由を垣間見た感じがします。


 まちなかの桜@移行期


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