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2018
09.10

予習かつ復習

 9月23日に東京でシンポジウムがあり、それを聞きに行きます。その予習として、國分功一郎先生の『中動態の世界』を読み直しました。以前に読んでいましたが、ちょっと記憶にある内容が怪しくなってきたので、復習。

 中動態は、私たちの生きている能動態/受動態の動詞形態の以前にあったものです。本の中ではこのように述べられています。



能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。



 この、主語が過程の内部にあるというところが重要なのです。私たちは、何かの動作をする。そしてその動作が主語である私たちに覆いかぶさってくるとも言えます。換言すれば、"みずから" 発した言葉や行った動作が "おのずから" 私たちに影響してくるのでしょう。非常に面白いですね。行為が影響してくることで、主体の "主体性 (私が) " をいったんほどいているとも言えるでしょうか。それは、人がその動作をしてしまったという "苦しみ" から解放してくれる可能性も有しています。

 そして、中動態の根底には「自然の勢い」がある、「過程を実現する力のイメージをそのうちに宿している」のです。この辺りは本を読んでもらうとなるほど納得なのですが、そこから、中動態は能動態を生み出したのではないかという推測が筆者によってなされます。動詞は非人称動詞としてあり、のちに中動態に。そして、その派生として能動態が生まれる、というのです。

 その中動態は消えてなくなり (慣用句としてその面影が残り)、能動/受動という、私たちの慣れ親しんだ分類に取って代わられます。動作の中に行為者がいるのかいないのか、という能動/中動の視点から、行為者が自分で行なったのかどうかという、行為と行為者とを強く結びつける能動/受動の視点に移っていきました。「出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行」と本文中で指摘されています。

 この『中動態の世界』では、スピノザのいう神を中心に展開していると言えるかもしれません。個人的には彼の表現する "神" はゾーエーに近いと思っておりまして (スピノザの神=自然そのもの)。神は超越的な絶対他者ではないんですよね。中動態も、超越的な唯一神、要するに今の西洋でいう "神" ではなく、スピノザ的、誤解を招くかもしれませんが、デカルト、いやソクラテス以前にあった思想との関連が深いと思います。そう、ゾーエーです。中動態は徐々に廃れ、能動態/受動態にその座を奪われました。それは、ビオスとゾーエーという概念から唯一の絶対存在である神という概念 (スピノザの神とは異なる) に移行したのとまったく別個の事象とは、私にはどうしても思われないのです。日本も昔はゾーエー的な考えが根付いていましたが、結局は仏教の存在で廃れたと言って良いでしょう。

 動作を行なう場合、ゾーエーが個々のビオスに入り込んでいるあの感じ、つまりは「自然の勢い」という観点。それは能動態を生み出す中動態の見方なのでしょう。そこから、個々と切り分けられた絶対的な他者としての神の誕生。切り分けるということで明白な他者意識 (主体-客体)が生まれ、そしてそれは対決・克服へとつながります。その観点は、現在の能動/受動となっているでしょう、たぶん (?)。

 中動態という態を考えると、現在の能動/受動でなかなか解決されない行為をすんなりと理解できるようになる可能性があります。そして、スピノザは中動態をしっかりとベースにすえて、能動/受動を考えていました。"する/される" という単純な区分ではありません。「スピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた」のです。スピノザ的には、受動と能動はすっぱりと分けられるものではありません。行為の中に能動性と受動性が混在していると言っていいでしょう。現在の私たちの受動と能動の考え方とは異なっていますが、中動態を動詞の源とする発想は極めて実践的と言えます (本文ではカツアゲが代表例になっています)。

 ちなみに、この中動態ですが、語弊はあるものの私はあえて「能動と受動の"あいだ"」と言いたいのです。この "あいだ" は木村敏先生的な意味合いでの "あいだ" であり、すべての始まりの "あいだ" なのです。AとBがまずあって、その結果の "あいだ" ではありません。はじめに "中動態" ありき。そこから動詞が広がっていく様は、行為することに新しい風を吹き入れてくれるでしょう。

 でもって、この本で大事なのは、中動態に関することもそうですが、引用すると



中動態を問うためには、我々が無意識に採用している枠組み、われわれ自身を規定している諸条件を問わねばならないのだ

それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである



 などに代表されるような視点。能動/受動の視点でいては能動/中動を理解できず、さらには能動/中動の視点の能動は、能動/受動の能動とは異なってきます。つまりは、ひとつのパースペクティブ (ものの見方、フレーム) に慣れきってしまうと、無条件でそこから眺めてしまい、結果的に齟齬が生まれるということなのです。患者さんのパースペクティブと医者のパースペクティブは異なりますし、患者さんごとでも、医者ごとでも異なります。いっぽうのパースペクティブのみであれば、他方に思いをはせることができません。いったん自分のパースペクティブをカッコに入れて、「相手はどう考えているのかしら?」「相手のいうこの言葉 (行なうこの動作) はいったいどんな意味があるのかしら?」と思うことが大事ですね。自分のものの見方から離れられないと、それは偏見・押しつけになってしまい、今に続く社会の息苦しさでもあります。
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