2018
06.12

変わらない、を意識しすぎると?

 治療者は安定していなければならない、とはよく言われます。患者さんはゆらゆらと不安定なので、安定して "変わらない" というのをおすそ分けするような、それが大事。このことはどのテキストにも書かれてあることですが、「安定していなくては!」と思いすぎるのも、診察室をぎこちなくさせるものかもしれません。

 自分もレジデントの時はギアスに命じられていたかのように「治療者が不安定ではいけない、安定していなくては…」と思っていました。今でもちょっとその傾向がありますが、ガチガチに変わらない、なんていうのはどだい無理な話だなぁとも感じております。

 ひとつのエピソードをご紹介。自分がインフルエンザになって外来を急遽休まなくてはならなかったことがあります。当然その日の予約患者さんは他の先生が診てくれたのですが、後日復活して外来で「前回はごめんなさいね」と謝ったところ

患者さん「いえ、先生も僕と同じ人間なんだなって思いました」

 と返されまして。どういうこと?と思い詳しく聞いたところ

患者さん「先生っていっつも変わらなくて、完璧みたいに見えてました」
自分「完璧ですか」
患者さん「はい。でもインフルエンザで休まれて、あぁ人間なんだなって」
自分「それでちょっとホッとしたところもありました?」
患者さん「はい、実は (笑)。でも僕も完璧でいてほしいと思っていたかもなぁと何か後で」
自分「私に完璧でいてほしいと思っていたことに気づいた」
患者さん「そうですね」
自分「それが私のインフルエンザで見事に崩れましたけど、それで怖くなるのではなく、同じ人間だと感じてホッとした」
患者さん「そうなんです」
自分「うーん、なるほど (笑)」

 という流れ。これには、若い頃 (?) の自分は本当に「なるほどな~」と思ったのであります。これで患者さんがぐぐっと改善したというのならさらにすごいのですが、そういうことはなかったのでした。でも何らかの転回にはなったのではないか?と自分では感じています。そしてさらに「おやおや?」と思ったのが、患者さんの中にはインフルエンザで休んだことを「もうどうしようかと思った」と話すかたもいたこと。これは精神分析的に色々言えそうですが、まだ患者さんの中で "準備" が出来ていなかったとも表現できます。治療者の不在に対してどう患者さんが反応するかというのは、治療の進展にも関わってくるでしょう。もちろん、個々の患者さんと治療者とのあいだで起こっているという認識も必要で、すべてを患者さんの内的世界として考えてはなりません。

 患者さんは苦しんでいる。つらさや不安を自分でどうにも処理できない。無力というのはイイスギかもしれませんが、自分ではどうにもこうにもなりません。そのため、処理してくれる治療者に投げ入れ、治療者はそれをかかえます。そして、患者さんがかかえられそうなものに砕いて返します。最初のうちは、治療者は絶対・完璧であることを求められます。治療者が移ろいやすく不安定であれば、患者さんの不安をかかえられません。治療者もある程度は完璧であろうとしますし、その時期はそのような姿勢が大切でしょう。言ってしまえばその庇護の中で、患者さんは "ゆとり" を思い出し、一歩を踏み出してみようと思えるようになります。その過程で、治療者が実は絶対ではないと感じ取ることが圧倒的に重要です。それは、患者さんがかかえられそうな形だと思って返してみたところ実はそうではなかったという失敗によります。この失敗ばかりだと患者さんはとてつもない恐怖に苛まれることでしょう。成功とちょっとした失敗の配分。そのような成功と失敗を繰り返した "ほどよさ" の中で、患者さんは治療者との世界から広がりを見せていきます。

 治療者がいきなり不在になる。そうなると、患者さんの反応は治療のあいだによってそれぞれ変わってくるのというのは理解できることだなと思います。

 小倉清先生は以下のようにお話しし、絶対であってほしいという患者さんの願望が重く感じる時の対処法などもご提示しています。


人は誰でも不安定なんですよね。安定している人っていうのは死んだ人なんですね。(中略) 患者さんは、治療者の不安定なところを突いてくることがあると思うのね。ほとんど意識的にかな、反射的にかしら、治療者の持っている弱点というのか、柔らかい点というのか、そこを突いてくるものなんです。なぜ、そういうことをするのか。それはいろいろあるかもしれませんけれども、一つにはやっぱり患者さんは治療者に絶対的であるものを求めるんだと思うんです。治療者である限りは不安定であっては困る、しっかりしてくれ、どの場合でも動じないで堂々としていて欲しい、という願望、本来は自分自身がそうありたいというものが治療者のほうに投げかけられているのかもしれませんけれどもね。それは年中起こることだと思うんですね。つまり患者のほうから、治療者がオムニポテントであることを要求してくることもあるわけです。ぞういう患者さんからの挑戦に対して、治療者はだいたい耐えなくてはダメなんだけれども、なかなか耐え難く思うときも、それはあるわけですよ。そういうときは同僚なり、上の先生なりにお話をするというのがいいんじゃないですかね。お友達でもいいと思いますし、家族であってもいいのかもしれません。 (治療者としてのあり方をめぐって. チーム医療. 1997)


 対処法は「こんなのでいいの?」と思うかもしれませんが、不安を誰かに投げ入れてかかえてもらう、そしてこちらがかかえられる状態に変形して返してもらう、ということを表しているでしょう。人と人とのあいだは、そのような "投げ入れる-かかえる" というつながりでもあるのだと思います。

 完璧であろうとするのは、不安定で崩れてしまいそうな段階に対しては必要かもしれません。でも治療を続けていく中でいつまでも完璧であっては、患者さんはその閉じた世界から離れることはできなくなります。治療的になるには "ほどよさ" が必要であり、その中の一体化していない "ズレ" こそが、患者さんが進んでいくための大切な要素であると思います。
トラックバックURL
http://m03a076d.blog.fc2.com/tb.php/2199-10739d5b
トラックバック
コメント
もなか先生へ

いつもお返事ありがとうございます。
私も…精神科の先生はどなたでも人格者であって欲しいと思っている1人です。
すみません…。
でも、先生でも患者様でも同じ"人"ですよね…。

幸いにして私は理屈ではなくとても安心させてくれる先生が1人おります。
安心させてくれると少しゆとりが出て来ます…。
不思議ですよね…
同じ話をしてもその先生じゃないと安心が生まれないのです。

自分で繊細なんです…というのもおかしいですが…。
なんなのでしょうかね…。
東西南北dot 2018.06.15 21:16 | 編集
>東西南北さん

ありがとうございます。
医者も "人" でして、その部分を患者さんも味わえるようになると良いのかもしれませんね。
完全ではない存在だという幻滅を徐々に引き受けることは、世の中で何とか生きていくためには大事なのだと思います。
そんな中でも、安心できる人がいるというのもポイントでしょう。
ふっと落ち着けるような、そんな存在でしょうか。
m03a076ddot 2018.06.19 08:46 | 編集
もなか先生、こんにちは。

1年前にいきなり微熱が続いて寝込んで「ストレスでしょ」と言われた者です。最も体調が悪かった時期は抑うつ状態もひどく、今もすぐに落ち込んでしまいます。
体調に波があって、気持ちもそれに引きずられてしまって、体調の波と気分の波に揉まれて疲れてしまうことがあります。

そんな時にこの記事を読んで
「安定しているのは死んだ人」
のことば。

名言ですね。
調子が悪くなると体は辛いし気持ちも沈むことに変わりはないのですが、「死んでない証拠」と思えば少しは気持ちが楽になります。
penguindot 2018.06.20 12:32 | 編集
>penguinさん

ありがとうございます。
確かになるほどなと思わせる文でした。
生きている限り、ゆらぎがあります。
そのゆらぎを自分の日常生活の中でうまく消化できれば、振り回されずにちょっと楽になるかもしれませんね。
m03a076ddot 2018.06.25 17:04 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top