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2018
06.01

過剰な医療の背景とその対策

 今回は、今問題となっている過剰な検査や治療がなぜ生まれるのか、そしてどうすれば解決に向かうのかという論文を軽く紹介します。

Hoffman JR, Kanzaria HK. Intolerance of error and culture of blame drive medical excess. BMJ. 2014 Oct 14;349:g5702. PMID: 25315302

 2014年のBMJに載っている短いもので、これは一度読んでみると良いのではないでしょうか。ここではちょっとまとめ的な訳を。

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 人間は過ちを犯すものです。意思決定のプロセスで、間違いは避けられません。間違いによる害を防ぐ最善の策は、間違いやそのニアミスを探して同定し、それらをとらえ軽減するシステムをつくることです。しかしながら、医療の分野において間違いは恥と考えられ、人々から責任を追求されます。そのため、医師は間違いの否定や隠蔽を行なってしまいます。これは間違いを防ぐには逆効果なのですが、はるか昔から医学に根ざしてきたものです。現代医学は完全なる科学に基づいているという自負があり、このことが、いかなる間違い、そしてどんな有害な結果をも受け入れがたい失敗だととらえてしまいます。

 この考えは一般の人々にも浸透してしまっています。完璧な結果を求め、病気になることや死ぬことは避けられないはずなのに受け入れられなくなっています。医師はどんな間違いにも個人的な責任を負うように指導されており、間違ってしまうことは理想には程遠い結果だと言われてきました。そのため、結果が悪ければプロセスに問題があると考えられてしまいます。患者さんが思わしくない結果になった時、医師は罪悪感と恥を抱きます。完全であろうとし、確実性を極端に求めようとします。しかし、いずれも達成可能なものではありません。社会は「問題は全てテクノロジーが解決できる」などの幻想を抱き、究極的には「死も自由意志による」とさえ思い込んでしまいます。

 間違いを起こした際の不利益を恐れるあまり、健全な医療から逸脱することになります。これを "守りの医学 (defensive medicine)" と言いますが、それが過剰な医療の最たる原因です。訴訟や見逃しなどを恐れ、過剰な検査や治療などがなされてしまうのです。現在の法律では怠慢が何よりも罰せられるため、訴訟リスクを下げるために過剰な医療が生まれてしまいます。訴訟リスクが低くとも医療過誤への恐怖は軽くならないかもしれませんが、だからと言って現在のシステムを変更する必要がないということではありません。今は責任追及が著しくなってしまっており、守りの医学から来る過剰な医療による財政負担も大きいのです。

 染み付いてしまった医師の行動を変えるのはたやすいことではありません。しかし、過剰な医療を制限せねばならないのと同時に、公での晒し上げを挫き、診断が間違っていたり考えられる治療を控えたりすることによる訴訟リスクをも軽減せねばなりません。とは言え、システムそれ自体の力ではうまくいかず、別の方策が必要です。現在行なわれてきているものがイギリスの "do not do" リストやアメリカの "Choosing Wisely" キャンペーンなどであり、オーストラリアでも同様のことがなされています。これらは不確実なことへの不耐性を扱っているわけではありませんが、完璧を求める文化から生じた過剰な医療を減らす第一歩となります。さらに、JAMAの "Less is More" セクションやBMJの "Too Much Medicine" キャンペーンなど、医学ジャーナルも努力しており、最近始まったpreventing overdiagnosis conferenceなどもあります。もう一つのアプローチは、意思決定のプロセスに患者さんに参加してもらうことです。SDM (shared decision making) の主な目的は患者さんの価値観や好みを反映させることですが、同時にリスクとベネフィットを考える不確実性を患者さんに理解してもらうことにもつながります。

 しかし、私たちはこれ以上のことをする必要があり、医療やより広い分野においても変えていかねばなりません。失敗や間違いが避けられないということにオープンになってもらい、そして専門家や多くの人々に "許容しうる失敗" を考えてもらう必要があります。医師は長きに渡って多くの人々から敬意を払われてきましたが、私たちは全能性への欲求を捨て去らねばなりません。しかし、社会が与えてくれる道徳的な権威を引き受け、それを以下のために用いねばならないでしょう。人体を無傷にしておくことは月に行くよりもはるかに難しいということ、適切な医学的情報から外れたものや医療者の理解できない情報は利益ではなく害になるであろうこと、疾患の早期発見は常に患者さん指向のより良い結果につながるとは限らないこと、そして検査や治療は多ければ多いほど良いとは限らないということです。

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 以上になります。私たちは "分からない" を極度に恐れます。そして、ついつい検査を余分にしてしまったり、不必要な治療をしてしまったり。それが患者さんにとって不利益をもたらし、医療経済も圧迫します。医者だけにその非を着せるのはお門違いでして、患者さん側にも ”分からない” を受け止めてもらう必要があります。医療は不確実なのだ、ということです。そこに耐える力が必要。メディアは医療の敵なのかと思うほどに過激な報道を繰り返しますし、それが国民の不信感を煽ります。「何かあったらただじゃおかない」となるわけです。そうならないためにもメディアには心を入れ替えてもらいたいですし、国にも頑張ってもらいたいところです。医者側も不確実性を表明するのは大事ですが、しっぱなしはご法度です。"分からない" 渦中にいる患者さんの不安をも抱擁することが求められましょう。そして、日本は皆保険制度が (かろうじて) あるため検査や治療の自己負担が少なくなっていますね。そのために患者さん側も「検査して」「せっかくだから薬をちょうだい」となってしまいます。医者側もそういう傾向にあるでしょう。それによって国の医療費が大きく膨れ上がることにもなるため、やはりそこへの理解も必要でございます。

 不確実性に耐えられない好例は"風邪に抗菌薬" なんてものでして、「もし抗菌薬を出さなくて細菌感染を見逃して悪化したらどうするんだ!」という追及や、医者側も「念のため…」という思い、そんなことで処方されてしまいます。でも予防については、たった1人の深刻な細菌合併症を防ぐには4000人以上に投与しなければなりません (BMJ. 2007 Nov 10;335(7627):982. PMID: 17947744)。必要のある時以外に抗菌薬は投与すべきではなく、かえって腸内細菌叢を乱してしまい、患者さんへの不利益になります。この 風邪に抗菌薬" はようやく国が重い腰を上げてくれた感がありますね。

 早期発見は患者さん指向のより良い結果にならないことがある、と上記にありました。「早期発見なら別に良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、子どもの甲状腺がんを例に挙げると、そのほとんどはおとなしいものです。日本全国の健康な若年者にスクリーニングと称して検査をすると、甲状腺がんって意外と見つかるのですよ。「たくさんの子どもに検査をして早めに見つけることの何が悪いの? おとなしいものなら経過をしっかり追えば良いじゃない?」と考えるかもしれませんが、やはり "がん" があるというのは本人とご家族にとって非常に苦しく、不安を増幅させます。将来についても何かと考えてしまいますし、親御さんならいろいろと思うところがあるでしょう。医者側も「何かあったら…」と考えますし、また不安に耐えかねたご家族からも「手術してください」と言われることがあります。そして、甲状腺がんもほとんどが無害ですが、遠隔転移をきたすようなものもごく一部にあるため放置できず、さまざまな不安なども相まって結局は無害なものも含めて手術、過剰な治療となってしまいます。まったく患者さん指向ではなく (倫理的に問題あり)、そこは分かってもらわねばなりません (大阪大学の研究チームの報告を見てみましょう)。

 精神科における身体拘束も、不確実性への恐れからなされる部分があります。拘束をやめるとインシデントが増える (アクシデントは増えないようですが) ため、拘束を減らす、究極的にはゼロを目指すのであれば、そのインシデントを許容するシステムが不可欠です。それは病院内にも必要ですし、患者さんのご家族にも必要です。拘束しなかった患者さんが転倒する、ということひとつをとっても、ご家族の中には病院に対し猛抗議する、看護師さんに対してこころない言葉を浴びせる、というかたもいます。しかし、拘束をしないということは、こういう事が起こりえると理解してもらわねばなりません。もちろん拘束することによる身体的なリスクも無視できないのですが。

 "分からない" に耐えること、そして医療には過剰があり、ともすると利益にならないということ。医者も、皆さんも、メディアも、弁護士さんも、裁判官も、国も、みんながその重要さに気付いてほしいところでございます。
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