2017
10.20

死に様は生き様でもある

Category: ★本のお話
 小澤竹俊先生の『死を前にした人に あなたは何ができますか?』を読みました。

 内容としては、とても良い本だと思います。医療職は亡くなっていく患者さんに対しどんな声掛け、どんな対処をしていけば分からなくなり、どうしても無力感に打ちひしがれます。でもこの本には患者さんのどこに注目していけば良いかというのがある程度パッケージされて示されています(”支えを見つける9つの視点”とそれを用いた”事例検討シート”)。そのパッケージも、前提としてきちんと信頼関係をつくるところ、すなわち患者さんの話を逃げずに聞くところから始めようとも書かれており、しかも分かりやすいですね。すべての苦しみに答えられるわけではない、と強調しているのも医療者には救いになるのではないでしょうか。「何とかして答えなきゃ!」と切羽詰まる人も多いので、答えられない苦しみだってあるんだよと指摘してくれるのは助かります。

 もちろん、本の内容すべてに賛成というわけではありません。例えばコラム3にある”人は赤ん坊に戻っていく”という考えに自分は否定的です。でもその考えで患者さんが少しでも安心して納得できるのであれば、それは適切なのでしょうね。

 そして個人的に注意したいのは、この本に限らないのですが、多くの終末期ケアの本は理想の臨終に少しとらわれすぎているかもしれない、という点。もちろん理想を目指しはします。理想なんてくだらないというつもりはさらさら無くて、理想に到達しようとする努力が現実をより良くしてくれるとも思います。でも、理想と思うような最期にならなくても、医療者は自分自身を責めてはいけない、そう考えているのです。その記載はあっても良いのではないでしょうか。

 今度の四国の講義でもそのお話を(時間が余ったら)するつもりなのですが、講義スライドからポイントを挙げると

・人の死に様は生き様を映す
・どう生きてきたかが、どう死んでいくかにつながる
・死は生の対極ではなく、生の集大成である

 ということなのだと思います。個人の生(小さな生)は千差万別であり、個人の死(小さな死)も同じく千差万別だ、ということ。

 医療者はハッピーな死を理想とし、そうならないことは失敗・自分の責任と考えてしまいます。例えばそれは、みんなに囲まれて穏やかに死んでいく、というものでしょう。しかし、同じ死というものはありません。病気を受け入れて穏やかに幕を閉じるのもひとつの死であり、あくまでも最後まで病気と戦って悔しがりながら散るのもひとつの死だと自分は思います。理想形を目指しはしますが、そうならなかったからと言って失敗ではありません。それぞれの “死=生” を医療者が受け入れる覚悟も大事なのではないでしょうか。

 また、打つ手がなくなると、医療者の介入も少なくなっていきます。それを患者さんもご家族も感じ取り、彼らは取り残された感覚に陥るでしょう。そこをしっかりケアしていくことも大切。患者さんのみならずご家族への目配りも欠かせませんね。

 最後に、少し前に別のところに書いた文を載せておきます。


★最期の文脈はその人らしく★

 物事の意味は、その物事単独では決まりません。“文脈”“行間”とも表現される全体性によって部分の意味が変わりますし、その部分の意味により全体性も影響を受けます。「バカ」という言葉は“罵る”“皮肉る”はたまた“甘える”などなど、状況によって意味は変わりますし、その言葉が発せられた後は雰囲気もちょっと変わるでしょう。また、「晴れているね」という台詞は、「晴れているから外に出かけよう」「日光が部屋に入ってくるように他の部屋のカーテンを開けて」などの意味になることもあるでしょうし、それによって周囲にもたらす影響も変わります。

 “あわい”という文脈性はとても動的であり、それは生と死という緊張をはらんだ事態で特に強く意識されます。例えば、がんに冒されあと半年の生命と判明。この半年も、文脈によって意味が変わるでしょう。私は、半年を患者さんに精一杯生きてもらい、そして精一杯死に向かってほしいと思います。死は人それぞれであり、「受容しなければならない」という意見は鋳型にその人の歴史をはめるような行為。生き様は死に様でもあり、死に様は生き様でもあります。手塚治虫は最期まで「仕事をさせてくれ」といいながら亡くなりましたが、まさに手塚治虫らしい人生を貫いたと思います。患者さんが患者さんらしく生きて死んでいくことができるのなら、それが壮絶なものであっても、後悔があっても、それで良いのかもしれません。しかし、それができなければ、死に至る病としての絶望となることもあるでしょう。医療者は前者の意味になるように、患者さんやご家族をサポートしていく存在。

 死ぬ場所もそうです。医療者は「在宅で死ぬことが最も良い」と盲目的に考えがちですが、それは患者さんやご家族によって異なりますし、同じ患者さんでも時期や状態によって変わります。死の臨床ではハッピーエンドを求める本や教科書が多いのですが、決してそうはなりませんし、分岐点を進んだらまた分岐点にぶつかる、常に迷い考えるもの。画一的な「死は受け入れるもの」「家族みんなに見守られて悔いなく死ぬのが一番」という模範解答は存在しないのではないか、と私は思います。

 抗がん剤で生命予後が数ヶ月延長されることも、同じように文脈依存性の意味を持つのです。「たった数ヶ月で何の意味があるのか」と一笑に付すのは思考停止を招きます。その数ヶ月にどんな意味を込めるか、数ヶ月を患者さんらしく生きて死んでいく期間にできるか、それによって数ヶ月の重みはまったく異なってきます。

 文脈を破棄してしまうと、“胃ろう=悪”、“延命=悪”、“在宅で死ぬ=善”などといった単純な考えが出現します。はっきりしていて分かりやすいものの、そのように発言するのは、生や死と真剣に向き合っていないことを露呈しているでしょう。臨床は判断が“あわい”の文脈によって変化します。そこを考え続けることが医療の大きな仕事なのだと思います。

 私たちの周りは、“事象”で溢れています。それは無・意味でもなく有・意味でもなく“非・意味”なのかもしれません。普段接している意味はとても恣意的であり、文脈によって私たちが付けたもの。それはすなわち、文脈を変化させることで、新しい意味が与えられ、絶望を希望に、そしてその逆もできてしまうことになるでしょう。 
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コメント
こんにちは。

先生の、言葉の意味を単純に決めつけず、ご自分でお考えになる姿勢はとてもありがたいです。

私は数年間両親を介護した後で見送り、自分だけではなく、他の介護仲間の経験も共有させてもらいました。

確かに、介護初期は「医療介入は最低限に」「自宅で家族と暮す」のが良いと思い込んでいる人がほとんどでした。(私もそうでした)しかし、介護生活が進んでいくと、良し悪しがそんなに単純でないことを思い知らされました。

被介護人の状態も介護者の状況も本当に人それぞれで、先生のおっしゃる通り、「ある理想の形」を良しとするのは非現実的だと思います。

被介護者の状況は予想できない形やタイミングで変化して行き、その度に、医師・ケアマネ・家族等、関係者皆で一生懸命考えて、その時その時のベストな選択をしていくしかないし、それで充分ではないかと思います。

父も母も最期は病院で亡くなりましたが、主治医の先生は両親を人として尊重して下さり、ご自分にできることを精一杯なさってくださり、とてもありがたかったです。

もし私一人で自宅で見送っていたら、あれだけの事はしてやれなかったでしょうし、私自身、肉体的にも精神的にも限界を超えていたでしょう。

あの時、人の死に立ち会う医師の仕事というのは、大変で、貴いものなんだな、と思いました。

なんだかとりとめのない文章になってしまってすみません。


yukodot 2017.10.24 17:04 | 編集
>yukoさん

ありがとうございます。
人の死というのは、ご家族にとってはキレイゴトでは済まないところもありますね。
様々な決断をせねばならず、疲弊することも多いと思います。
介護者も共倒れになってしまっては大変ですしね。
yukoさんも、その時その時に応じた最良の選択をなさったのでしょう。
医療者もそれをサポートできて本当に良かったと思います。
人の死は、単純には割り切れないものです。
m03a076ddot 2017.10.28 21:51 | 編集
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