2017
07.14

病気と人

 「病気じゃなくて人を診ろ」とはよく言われる言葉です。この言葉は無条件に肯定されることが多く、患者さんにも受けが良い(それだけ医療への不満があるのでしょうね…)ことは知られています。自分はひねくれているので、そんな言葉を聞くと「また安っぽいセリフを…」と感じないわけでもありませんが、それは内緒です。あ、「病気とは何なのか」という話は横に置いておきましょう。

 ただ、やはり病気というのを相手にするのが医療職であるというのを忘れてはなりますまい。「病気じゃなくて人を診なさい」は強調されすぎているキライがあるのではと感じていまして、個人的には


病気も診る、人も診る


 というスタンスがもっとも大切だと考えています。当たり前なんですけどね。もちろん「人を診なさい」の”人”は”病をかかえた人”の意味です。どの科でもそうですが、私たちは診察室や病室で人と接し、その人が人生をよりよく生きて欲しいと思っています。そして、その”よく生きる”も人によって、また状況によって異なることは言うまでもありません。人生に思いを馳せる時、人はみな哲学者になるとも言えましょう。

 昔々は病気を診る方に重心が寄っていたので、冒頭のような言葉が生まれたのかなと思います。ただ、人を診るばかりに針が動きすぎて、病気の方をないがしろにしてしまってもいけません。その”病気を診る”というのも必ずしも治癒せしめるわけではなく、病気には慢性的に経過するものもあるため、その人の生き方に悪い方への影響を最小限にすることをも含みます。

 精神病理学を例に出しますが、そこでは統合失調症をちょっと神格化していた傾向があり、この疾患こそ人間の自己のあり方を教えてくれるのだと考えている人もいます。だから、patients with schizophrenia というような言い方を好まない学者さんもいるのです。この表現は統合失調症という疾患が人間の外にあるような印象を与えますが、そこがお好きでないようです。「それではないんだ。統合失調症を持った患者さんではなく、統合失調症者、統合失調者なのだ」と考えているようで、人間の存在と統合失調症というのをどこか分かちがたく、ある種のロマン的なとらえ方をしています。患者さんはどう思うのかしら。それで「そうかぁ、納得」と思う人もいるでしょうし、「そんな冗談じゃない」と思う人もいるでしょう。自分は、それが正しいのかどうかは分かりません。

 でも研修医やビギナーには、やっぱり疾患は with として考えておこうよ、と言いたいところがあります。疾患を抱えながら、抱えた人としてどう生きていくのか。疾患は患者さんにいろんな影響を与え、それは悪いものばかりではないかもしれません。しかしながら、人と疾患とを混然として扱うのは、当たっている間違っているを別にして、若手の思考としてはまだ早いような気もします。特に慢性疾患の場合、患者さんの心情にかなり配慮する必要があり、疾患と人との境界線をなくすような発言は少なくとも人生の後輩が初期に口にするべきではないようにも思います。長年経過した患者さんからは「この病気は私の一部です」という達観した言葉がありますが、それを全ての患者さんの目標にすべきではないですし、最初からそこを押しつけてもいけません。疾患はあくまで疾患であり、withという意識でいた方が侵襲的ではないのだと、患者さんとのお話もそういう気持ちでしていきます。

患者さん「なかなかこの病気は厄介ですね。薬で何とか軽くしてもらってるけど」
自分「そうですねぇ、本当にこれは…。たまに暴れ馬みたいになりますものね」
患者さん「そうそう。本当に暴れ馬。でも最近はうまく手懐けるようにはなってきたかな、少しね」
自分「あら、そうでしたか。ご主人様は私だぞ! という感じでしょうか」
患者さん「そうね。長年ですからね。一生の付き合いというのは分かっているので」
自分「うまくお付き合いしていこう、と」
患者さん「そうそう」
自分「病気とは離婚できないですもんね」
患者さん「そうね。腐れ縁ってやつかしら」

 withという意識は、外在化のテクニックにつながります。疾患が外からやって来る、自分とは異なものである、と意識することで、疾患に飲み込まれないようにしてもらうコツになります。例えば患者さんが「不安になる」と表現しても、こちらは「そうでしたか。不安がやって来るんですね」と言い換えてお返事をします。「不安になる」だと、自分の中から湧き上がってくるからどうしようもなくなる感覚につながりますが、「やって来る」だと、やって来る相手に対してさあどうしようか、という考え方にもなりますし、患者さんと医者の共同戦線のような意識付けにもなります。

 そういうことを考えていくと、「病気じゃなくて人を診る」というところに傾倒してしまうことでwithの意識が薄れてしまうのではないかと思うのです。そして、過剰な”人を診る”ことの副作用として”他者であることの薄らぎ”があるとも感じています。柳田邦男の”死の人称性”ではありませんが、「人を診るぞ!」という意気込みは他者性を希薄化させ、2人称的な、「わたし-あなた」の関係に陥る危険性があります。患者さんからすれば「そんなに親身になってくれるなんてありがたい」と思うかもしれませんし、医療者の一部にはそれを励行している人もいるでしょう。しかしながら、私たちが患者さんと2人称的に接するのは、プロフェッショナルとしての判断に影を色濃く映します。どこかで冷静な、醒めた目を持っていることが必要なのです。診察室というのは、患者さんのそれまでの人生と医療者のそれまでの人生との”あわい”の場であり、そこから対話は生まれます。そういうのを常に考えておかないと、患者さんの人生に巻き込まれるか、もしくは医療者の人生に患者さんを巻き込んでしまうことすらあるでしょう。もちろん、人生と人生が出会う場所なので少なからずお互いが巻き込み巻き込まれするものですが、どこかで線を引いておくぞというアタマを持っていないと際限がなくなります。巻き込まれるにしても、”巻き込まれていると分かって巻き込まれる”か”巻き込まれていると知らずに巻き込まれる”のでは、全く違います。関わること、それは患者さんに悪影響を及ぼすという副作用にもなるのです。2人称としての接触は無批判で受容されるべきではありません。例えば、家族は2人称であるがゆえに「家族だからこそ許せない」ことだってあるでしょう。家族の中の出来事はキレイゴトでは済みませんし、それに医療者はよく遭遇しているはずです(介護の問題など)。人を分かろうとしすぎないこと、この自制が大事なのだと思います。いくら親しくても、その人には語りたくないものがありますし、それをこじ開けてもいけません。ジンメルの言う”秘密”として対処すべきであり、そこが他者の意識付けにもつながるのでしょう。もちろん分かるところまでは分かろうとする努力は重要ですが、人の心に土足で踏み込むことにならないようにすべきです。

 よって、病気を診るというのを意識することで、私たちは医療者としてのプロフェッショナリズムを保て、他者として接することが可能になります。私たちには”他者”の強みがあると言えましょう。病気と人、この両者への目配りが完全なる他者としての3人称でもなく、近すぎる2人称でもなく、”2.5人称”としての接触を可能にするでしょう。”あわい”を常に思い浮かべて、私たちが見て聞いて感じているのは、私たちと患者さんとの相互作用の結果なのだと受け取ってみるべきで、そこに医療者という職業性の他者をも崩さないでおく。ちょっと相反しているようなスタンスを入れておくのが大事。

 ちなみに、”他者”と言えどもゾーエー的なつながりというのは感覚としてあります。「自分の見ている世界と他の人の見ている世界なんて、結局は異なるんだぞ」という考えは、行き過ぎると”断絶”となります。確かに他者は分からないのではありますが、それぞれの自己というのは”あわい”から立ち現れるものであり、その”あわい”では私たちはつながっている(ひょっとしたら原初なる一?)のだと自分は思います。そのゾーエーがあるからこそ2.5人称という絶妙なバランスが出来るのかもしれませんし、西田幾多郎の視点からの解釈も出来そうです。「そんなお花畑思考の根拠は?」と聞かれてもそんなのないんですが、ひとりひとりの世界が違って分かり得ないなんて、ちょっとさびしい気がします。ただそれだけ。

というか、何事も”ほどよさ good enough” で説明できてしまいそうな気がしますね。難しいことを聞いても「つまりは、ほどよさか」と感じるようになってしまった。色々と本を読んで考えてもみたんですが、その結果がこれというのも悲しい気がしないでもない。
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コメント
先生、お久しぶりです。・:+°★

不安なことがあり、ご質問させていただきます。
昨日の14日、母が軽度認知症と診断されました。
まだ、心理検査や問診のみでMRI検査は受けておらず、8月1日に他院へ紹介状を持って検査にいきます。

そして、お薬が出されたのですが、アリセプトD錠剤、デパケンです。
アリセプトは認知症のお薬ですからわかるのですが、その副作用を抑えるためのデパケンに私は不安があります。

まず、アリセプトで副作用が出るかもまだわからない状態で、なぜいきなりデパケンを飲ませるのかということ。
デパケンも副作用のキツいお薬みたいなので、その点大丈夫なのかということ。

認知症専門のクリニックですが、口コミとかではなく、姉がインターネットで調べて予約を取った病院で、そのへんも不安があります。

私は自分の主治医にも、自分の薬について疑問があれば事細かに納得がいくまで訊きますので、母のつき添いの時にもしっかり訊こうとは思いますが、初診の時に薬の副作用を抑える薬も出しますとしか聞かされず、デパケンであることは処方箋を見て知りました。

飲ませるのが不安です。

記事の内容と違ったコメントで申し訳ないかとは思いますが、、、。
どうして良いのやらと不安です。

自分自身のことではないだけに恐いです。
こんひゅすぱいdot 2017.07.15 03:57 | 編集
>こんひゅすぱいさん

ありがとうございます。
デパケンですか。
アリセプトの副作用止めということは、アリセプトによるイライラや怒りっぽさを緩和するために出したのかな? とは思いますが、それ以外でのアリセプト+デパケンの意味は思い当たらないような。
アリセプトで怒りっぽくなれば減量が良いかとは思いますが、その先生にはその先生の考えるところがあるのだと感じています。
やはり主治医の先生や紹介先の病院の先生のご意見を伺ってみるのが良いでしょう。
認知症とのことですが、お薬も大事ではあるものの認知症と診断されたその人、そしてご家族の気持ちがいちばん大切ですね。
これからの不安などもおありでしょうが、患者さんはそういうところを察知することが多いです。
認知症であっても、ご本人やご家族がゆとりを持って暮らしていくのが肝要ですし、結局のところ治療的でもあると思います。
小澤勲先生の本や、最近だと上田諭先生の本などを読んでみると方向性がつかめるかもしれません。
m03a076ddot 2017.07.18 16:15 | 編集
管理人用コメントをくださったかた、ありがとうございます。

再発した場合はお薬の効きにくい期間が長くなる場合があります。
何とかそこを待って堪らえるのも大事かもしれません。
ただ、セカンドオピニオンを受けるのであれば、それに向けて聞きたいことをまとめておくと良いかと思いますし、あとは身体疾患で幻覚妄想となる場合もあるので、その辺りは聞いてみる項目でしょうか。
隔離解除にならないとストレスもあるでしょう。
患者さん本人がどう取り組めば解除になるかというのを明確にしてそれに向かっていければ良いかもしれませんね。
m03a076ddot 2017.07.18 16:22 | 編集
どこか醒めた目、大変勉強になります。
若手精神科医dot 2017.07.19 13:56 | 編集
先生、ありがとうございますm(_ _)m

母には何も心配せず、気持ちを楽に持ってほしいということと、私や姉とのコミュニケーションの時間を増やすことや、運動嫌いですので楽しく話しながらお散歩に誘い出したりと今、実行中です。
私と姉が花壇にお花を植えて、母にも手伝ってもらってお花を楽しんでみたり。
母は、「家でお花がみれるわぁ」と嬉しそうにしてくれてます。
父はパーキンソン病ですので、自分のことが辛くて母のサポートはできないですし、実家に住む私が一番の力の見せどころで…。

教えていただいた本を参考にさせていただきます。
また、母の主治医ともしっかり話してゆきたいとおもっております。

お忙しい中、丁寧にお答えくださって感謝致します。
ありがとうございます。・:+°★
こんひゅすぱいdot 2017.07.19 18:35 | 編集
>若手精神科医先生

ありがとうございます。
距離が近いと、その人は変えられる! 自分が変える! と意気込み過ぎてしまうところがあるように思っています。
他者であることの重要性は、常に意識しておきたいところですね。
m03a076ddot 2017.07.25 11:24 | 編集
>こんひゅすぱいさん

ありがとうございます。
認知症患者さんは、特に家族間の ”あせり” に漠然ながらも強い不安感を持つことが多いと思っています。
まずはこんひゅすぱいさん自身がゆとりを持つことが大切で、そこからゆとりを人との間に広げるようにしていくと良いかもしれませんね。
自分を大事にすることが、他の人を大事にすることのスタートでもあります。
力を入れ過ぎず、気負わずに生活をしていただければと思います。
m03a076ddot 2017.07.25 11:28 | 編集
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