2016
06.06

はやわかり、アーサー・クラインマン

Category: ★本のお話
 『ケアをすることの意味: 病む人とともに在ることの心理学と医療人類学』を読みました。『病の語り』などで著名な臨床人類学者のアーサー・クラインマンの入門書とも言える位置づけでしょうか。彼に馴染みがないかたは、まずはこの本が適切な導入となるかと思います。そこから他の著書に派生していく方法が良いかと。自分は研修医の時に初めて彼の存在を知り、『病の語り』『精神医学を再考する』を読みましたが、今回紹介した本はホントに彼の仕事を”見渡す”ものとして適しています。

 「ケアとは何か」「どこでなされるべきか」ということを、広い視点ながらも患者さん本人やその周囲の重要な他者との関係性で考えている内容。しかしながら、ケアについて常々考えてアンテナを張り巡らせているかたにとって、目新しい内容は若干少ないようにも思います。それはアーサー・クラインマンが当然のことを述べているのではなく、”ケア”について考える水準がじわじわ上がってきたということの現れでしょう。クラインマンの言うことが「あ、知っていることだ」と思うようになることこそ、長年活動してきた彼の望むことなのだと思います。そして、昨今のケア関連の本はそのレベルに達している内容のものも実に多くなってきた、そう感じています。それは彼の考えが少しずつ広まってくれた証でもあるのでしょうね。

 切り口はガラッと変わりますが、勉強熱心な若い医者にとって、第三世代の経口セフェムはバイオアベイラビリティが非常に低くスペクトラムも何だかどっちつかずで、処方する意味すら問われるものだというのは論を俟たないでしょう。しかし、それが浸透するまでは青木眞先生や岩田健太郎先生など、感染症の専門家たちのまさに血の滲むような努力がありました(しかも現在進行中)。熱心でない医者は経口第三世代セフェムを今でも頻用(乱用)していますが、若い人たちを見ていると確実に時代は変わってきている、そう思います。クラインマンの本を読んで「良く言われていることだよねー」と感じるのであれば、それはまさにクラインマンの功績でもあるのです。

 そういったことを確認するためにもしっかりと読んでみることをオススメします。もちろん彼ならではの視野を堪能できるので、そこが楽しみでもあります。とは言いながら、クラインマンの本に物申すのは非常に恐れ多いのですが、今回は少し「うーん」と思った点を挙げておきます。

 1つは最初の皆藤先生の書かれたまえがき(クラインマン先生は、とばっちりですな)。皆藤先生はユンギアンなのでユングのことが述べられておりますが、その愛が強すぎるせいかクラインマンとのつながりをどうしても見出したいという前傾姿勢が。。。クラインマンと比べるわけではありませんが、自分も精神科医なのでちょっとユングを読んでみたことがあるものの、特に大きな感想は…。ユングは日本で人気が高いのですが、それはやはり河合隼雄先生によるところが大きいのでしょうね。皆藤先生の文はちょっとユングを理想化しすぎており、やや強引な論調でした。自分としては、ユングは診察室という場での主観と主観のつながりに耐えられず元型に視点が移ってしまった様な感じがしています(註:あくまでも個人的な見解であることを強調しておきます)。

 もう1つはクラインマン自身の文章ですが、やはりケアを考える立場にある人たちに多いDSM批判・EBM批判でしょうか。そこは解釈の問題だと思うんですが、どうしても「ケアだ!「ナラティブだ!」という立場の人たちは「DSM=悪」「EBM=悪」という枠にはまりがちです。決してDSMもEBMもそうではないと自分は考えているのですが、いかがなもんでしょ。

 DSMには「熟練した人以外は安易に使うな」としっかり述べられていますし、その熟練というのは精神科医として個別の患者さんのことを思い、理解できるところまで理解していき、理解できない部分を病める人の秘密として大切にする姿勢ということでありましょう。決してケアと相反するものではないのです。DSMを間違ってチェックリストのようにして使う医者こそが責められるべきであり、DSMにその批判の銃口を向けてはなりません。しかもDSM(特にDSM-III)出現以前の精神科医療が良かったかと言われるとそんなこともないでしょう。みんな好きなことを言って診断名の洪水状態でしたし、治療もね…。なので、DSMを医療化だと切って捨てるのは、肯定的な側面を小さく見ている気がします。もちろんDSMも不完全であり、そこは改訂を重ねる必要性があったりカウンターとしてRDoCのような別の概念が出現したりするのですが。

 また、本では、死別による悲嘆すらもDSM-5ではうつ病として扱われるのはオカシイという内容のことが言われていましたが、これはホンモノのうつ病をしっかりと見つけておきましょうということをDSM-5は言いたいのです。「死別のがっくり感は全部うつ病じゃない」というのも思考停止ですし、「死別のがっくり感は全部うつ病だ」というのも思考停止。しかも過剰診断への警鐘として、結構詳しく鑑別も書かれているんですよ。ちょっと長いのですが引用を。


悲嘆を抑うつエピソードから鑑別する際には、悲嘆では主要な感情が空虚感と喪失感であるのに対して、抑うつエピソードでは持続的な抑うつ気分、および幸福や喜びを期待する能力の喪失であることを考慮することが有用である。悲嘆における深い気分は、数日~数週間にわたる経過の中で弱まりながらも、いわゆる”悲嘆の苦痛”(pangs of grief)として、波のように繰り返し生じる傾向がある。その悲嘆の波は、故人についての考えまたは故人を思い出させるものと関連する傾向がある。抑うつエピソードにおける抑うつ気分はより持続性であり、特定の考えや関心事に結びついていない。悲嘆による苦痛には肯定的な情動やユーモアが伴っていることもあるが、それは、抑うつエピソードに特徴的である広範な不幸やみじめさには普通はみられない特徴である。悲嘆に関連する思考内容は、一般的には、故人についての考えや思い出への没頭を特徴としており、抑うつエピソードにおける自己批判的または悲観的な反復想起とは異なる。悲嘆では自己評価は一般的には保たれているのに対して、抑うつエピソードでは無価値観と自己嫌悪が一般的である。悲嘆において自己批判的な思考が存在する場合、それは典型的には故人ときちんと向き合ってこなかったという思いを伴っている(例:頻繁に会いに行かなかった、どれほど愛していたかを伝えなかった)。残された者が死や死ぬことについて考える場合、一般的には故人に焦点が当てられ、故人と”結び付く”ことに関する考えであり、一方、抑うつエピソードにおける死についての考えは、無価値観や生きるに値しないという考えのため、または抑うつの苦痛に耐えきれないために、自分の命を終わらせることに焦点が当てられている。
(DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル P162)


 これほどまでにしっかりと記されているんです。人と人とのつながりの重要さを言い表してくれているのではないでしょうか。DSMを批判する前に一字一句を読み込む必要がある、そう思います。さらには


最後に、悲しみの期間というものは人間体験に本来備わっている側面である。これらの期間は、重症度(例:9項目中の5項目)、持続期間(例:ほとんど1日中、ほとんど毎日、少なくとも2週間)、および臨床的に意味のある苦痛または機能障害の診断基準を満たさない限り、うつ病と診断されるべきではない。
(DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル P167)


 とも念押しされています。DSMはポケットタイプの診断基準だけ載っているものを見てオシマイなのではなく、きちんと分厚い親本を読み込んでから使用されるべきです。それをせずに「つらいです…」という言葉を「あ、抑うつ気分」と読み替えてしまう医療者の愚行が改められるべき対象で、そこを間違えてはいけない。その”つらさ”に一歩踏み込んで耳を傾けることが重要です。”臨床的に意味のある苦痛または機能障害”にしても、そこには1人1人の患者さんの生活を見据えていることが伺われましょう。DSMの一部分だけを切り取って「健常をこうやって異常にして医療化を図っている!」と語るのはフェアでない。治療だって、ご家族を亡くした患者さんに定期的に会ってそのつらさを語ってもらうだけでも、クラインマンの言う”そこに在る”ということを実践していることになるでしょう。フランクルのようにつらさに別の意味を付与することも治療です。”治療=抗うつ薬”ではありません。DSM-5は抗うつ薬を投与しろとは言っていないのです(そもそも治療方法については語っていません)。

 EBMについてもクラインマンに誤解があるのかもしれません、ひょっとしたら。”エビデンス=EBM”では決してありません。以前に記事にしましたが、得られたエビデンスを目の前の1人の患者さんに対して使うこと、使わないこと、それを考える過程そのものがEBMなのです。エビデンスやナラティブなんてどっちもどっちやろ、というご意見もありそれこそごもっともなのですが、EBMが誤解されている姿を見ると可哀相でちょっと放っておけなくてですね…。EBMというのはきちんと患者さんのことを慮ってなされることなのですが、そう考えない医療者も多数いることは事実であり、ここは今の医学教育の弱点、すなわち”教育のシドコロ”とも言い換えることが出来ます。ということは、そこを学生さんの教育に組み込んでより広げていくと、エビデンスを当てはめようとする将来の行為が減って眼前の患者さんのことを考えるようになる気がしないでもありません(DSMも同様ですね)。そう考えると、EBMの定義を正しくとらえるのは決して悪くはないと思っているのですが、いかがかしら。クラインマンが思うようなものとは異なり、EBMやDSMは決してケアと対立するものではなく、本来はそれを十分にまなざした存在なのです、たぶん。遍く医療者がそれを自然に出来るようになれば、EBMやNBMなんて言葉は良い意味で消失するんでしょうけれどもね(しかし時代は繰り返して、人間の惰性により復権するか別の新しい言葉が生まれるのかも)。

 ということで、本筋とはちょっと異なる細かいところにコメントを付けましたが、最初にお話したように優れたケアの総論本であることに変わりはありません。世界的権威の話す分かりやすい内容(しかも厚くない!)は、それだけの価値があるでしょう。”権威”というと煙たい感じがあるかもしれませんが、若手であればまずはどうであれその筋の本は読んでみた方が良いかと。読まずに自分勝手で未熟な意見を放つのでもなく、読んでその権威に染まるのでもなく、それを通して対話を重ね、他の著者の本や意見をも吸収しながら、自分なりの考えをゆっくりじっくりつくっていけば良いのではないでしょうか。若手にはその時間がありますよ。

 ちなみに、ケアに関しての古典的な本として、他にエリック・J・キャッセルの『癒し人のわざ』を読んでみると良いでしょう。訳がちょっとぎこちなく意味の通りにくいところも多いのですが、古いながらも内容はとても良いものです。最近の本でも「おっ」と思うものが結構出ているので、探してみてはいかがでしょうか。
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コメント
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dot 2016.06.08 17:26 | 編集
管理人用閲覧コメントをくださったかた、ありがとうございます。

食べ物、風景、ぐでたま先生がこのブログのメイン?でしょうか。
東洋医学は患者さんを眺める1つの切り口になってくれると考えています。
雑多なブログですが、時折見ていただければと思います。
m03a076ddot 2016.06.09 21:07 | 編集
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