2016
03.18

”正しさ”が唯一絶対の正義ではない

Category: ★本のお話
 今回は記事を二連投。いずれも緩和ケアの本についてです。

 創元社さんから出た岸本寛史先生の『緩和ケアという物語 - 正しい説明という暴力』を読みました。

緩和ケアという物語

 縦読みであり文系的な印象はあるものの、良い本だと思います。緩和ケアのみならず、慢性疾患を抱えた患者さんの日常診療でも役に立ってくれるでしょう。精神科医から見ると一般的な原則が書かれているのですが、そうでない医療者にとっては「なるほど!」と思わせてくれます。精神科医であっても、「そうだそうだ」という再確認のために読んでみることをオススメします。一般的な原則というのは、当たり前だからこそ忘れ去られやすいものです。ついつい「病識がある/ない」という視点で患者さんをとらえていませんか? ”病識”は実に医療者のエゴが出ており、使い方次第では患者さんを見つめる側面が欠落している冷たい言葉になってしまうこともあります。

 この本は、緩和ケアを素材にして”医学的に正しい説明”が時として患者さんに対して暴力性を持つということが書かれています。患者さんの言葉に対して「いやいや、○○とはこういうものでね、あなたの理解は違うんですよ。だからこうしましょう」という説明は往々にしてなされていると思います。それは、患者さんと医療者とをつなぐ糸を断ち切ってしまうものになり得ます。医療者の考えをいったんカッコに入れておく謙虚さが大切でしょう。この本では

”…真偽・正誤の物差しで見ているかぎり、患者は誤りを正されるべき「対象」とみなされ続ける。しかし、物語の「語り手」となれば話は別である。患者は、正さなければならない「対象」から、物語を語る「主体」へと「変身」するからである”

 と述べられています。

 そして、患者さんの物語のみならず、医療者にも物語があります。2つの物語のズレを明らかにして、そこをどうすり合わせていくか。そのすり合わせのヒントを患者さんの語る言葉・背景に見つけていく。私たち医療者はこのズレを焦って力技で解消しないようにしましょう。その焦りそのものは悪いものではありません。それを持ち続けて患者さんに接していると、新しい視点が生まれるかも可能性があり、それを信じて会うべきでしょう。それはただただ”聞く”という受け身的な態度ではなくなります。
 
 この本を読んで、精神科的にはウィニコットの”抱っこ”やビオンの”抱えること”を連想しました。医療者に求められるのは、患者さんの言葉を抱えてあげることなのでしょう。医療者は性急にそれを返さず、醸成させる態度が求められます。

 ちょっと注意すべき点としては、この本の第7章で

”ナラティブ・アプローチの基本姿勢を貫こうとすれば、夢も、せん妄の語りさえも、真剣に耳を傾け、そこを入口として、語り手が体験している世界に迫ろうとすることが必要だということになる”

 と述べられていますが、それは追求し過ぎないのが良いかと思います。夢を扱うのは十分な知識を持った医療者がすべきことであり、興味本位で行なって良いものではありません。それはまさに”暴力”になる可能性があります。仮に夢を聞いても解釈は控えるようにして、医療者の中に留め置くようにしましょう。せん妄については、やはり早期に治療をしっかりしておく必要があるでしょう。せん妄はもはや”可逆的”ではなくなっており、長期化したせん妄はその後の認知機能や生命予後に影響を及ぼします(Saczynski JS, et al. Cognitive trajectories after postoperative delirium. N Engl J Med. 2012 Jul 5;367(1):30-9.  Fong TG, et al. Adverse outcomes after hospitalization and delirium in persons with Alzheimer disease. Ann Intern Med. 2012 Jun 19;156(12):848-56, W296. Salluh JI, et al. Outcome of delirium in critically ill patients: systematic review and meta-analysis. BMJ. 2015 Jun 3;350:h2538.  Cole MG, et al. Partial and No Recovery from Delirium in Older Hospitalized Adults: Frequency and Baseline Risk Factors. J Am Geriatr Soc. 2015 Nov;63(11):2340-8.)。現実的には、早期に治療介入しながらも、その中での患者さんの態度や話を少し医療者の頭の片隅に入れておくようにする程度かと。とはいえ、終末期であれば多くの患者さんがせん妄を来たし、それは積極的な治療対象にならないことも多いでしょう。その時は、患者さんの”語り”にお付き合いをしていくことはとても意味のある行為だと思います(”せん妄”の対処も、時と場合によってかなり異なる)。

 ただ、全体的にもうちょっと簡単な表現の仕方があるかなぁと思います。”文系的”と最初に述べましたが、悪い言い方をすれば”持って回った表現””もったいぶった表現”になっているでしょうか。難しいことを難しく言うのは、ともすると読者を煙に巻きかねません。そういうのを有難がる人たちもいるにはいますが…。そういう表現に慣れているのであれば、全く苦もなく読めますよ。

 最後にこう言うのもナンですが、自分は”物語””ナラティブ”を大上段に構えるのはあんまり好きではありません。「ナラティブを見て素晴らしい医療をしているオレってカッコいい!」というようなタイプの本もちらほらあります…。お腹いっぱいになりますね、そういうのは。患者さんの中には探られたくないナラティブを持っている人も多いです。他者というのは完全に理解することが不可能であり、その理解できないところに畏敬の念を持って接することが医療では重要でしょう。理解できると思うなんておこがましい。理解しきれないからこそ他者であり、社会学者のジンメルはそれを”秘密”と呼んで大事にしましょうと言いました。軽々しく”ナラティブ”と口にしてしまうことの危うさも頭のなかに留めておく必要はあるでしょう。
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コメント
正しさが唯一絶対の正義ではない。
この言葉になぜか惹かれました。

精神科ってそれを特に感じる場所かもしれませんね。例えばクスリを飲むことが正しかったとしても、それが唯一絶対の正義にはならないこともある。

日々の生活の中でも、正しさが必ずしも正義ではないことがあります。時には正義だと思っていても、別の選択をしたりして。それでうまく流れればそれが正義になる。
のであれば、それで良いのだと思いながら、過ごすようになりました。
ペンナップルdot 2017.01.28 18:17 | 編集
>ペンナップルさん

ありがとうございます。
医療者の思う正しさを押し付けることは、患者さんにとってはとても苦しいことだと思います。
患者さんの思う正しさ、医療者の思う正しさ、この2つをお互いに認めていける(合意に至らずとも)というのが大切なのかもしれませんね。
精神科では特に社会生活や日常生活が色濃く関与するので、患者さんの立場に医療者が思いを馳せる必要があろうかと思います。
m03a076ddot 2017.01.30 16:18 | 編集
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