2015
05.17

身体診察の治療的意義

 身体診察は診断のためや病気の経過を見るために行なう、という認識だと思います。

 中には意義に乏しい診察もあり、そのようなものはあまり行なわれなくなっているでしょうか。例えば胸背部の打診は、ほとんどの状況でしない医者の方が多いかもしれません。肺炎を疑った時の聴診も「エビデンスでは大したことないんだぜ」と言って行なわない研修医もいるかもしれません(マクギー先生の本では、クラックルはLR+1.8, LR-0.8とされています)。

 ただ、身体診察は経験することでどんどん精度が上がっていくんですよ。「エビデンスで意味がないから」と言って行なわないのであれば、その医者の中では意味がないくらいの質のもんでしょう。熟練した医者の聴診は、自分が聞き逃してしまうくらいのクラックルを拾うでしょうし、そのような素晴らしい域の診察は十分に信頼に足るものと思います。そして、若手の医者も「自分の腕ではまだまだなのだ」ということを知りながら、練習に練習を重ねていくことが求められましょう。最初から一級品のものなんてこの世に存在しませんし、地味な練習こそ磨き上げるための唯一の方法。

 さて、診察というのは、そんな役割の他に安心を患者さんに与えることができるんです。自分の記憶で申し訳ないのですが、子どもの頃、上気道症状が出た際に連れて行ってもらった開業医さんに恩村内科医院というところがありました。そこのおじいちゃん先生の恩村先生は名医だと自分は思っているのですが、自分が地元を離れる時には息子さんがメインにされていたくらいなので、今は引退されている(失礼ながらご存命かどうか…?)でしょう。

 いつもその先生は、聴診をして、その後にとても滑らかな打診をしてくれていた記憶があります。一般的な打診のやり方ではないような感覚があり、今でも自分はあの打診の方法が分からないのですが、ちょっとくすぐったかったけれどもリズミカルで心地良かったんですよねー。そして先生の「風邪ですねぇ」という決まり文句(?)。今思い出すと、恩村先生にあの打診をしてもらって「風邪ですねぇ」と言われること自体が治療だったのだと考えています。子どもごころに安心できる空間でした、あの病院の診察室は。

 アクロバティックなこともしませんしハタから見たら地味なんでしょうけど、みんなに安心を与えてくれるような雰囲気をもたらしてくれる恩村先生は、本当に素晴らしい先生だったなぁと懐古しております。理想のかかりつけ医だったかもしれませんね。地元にいた時は家族みんなお世話になっておりました。

 そんなわけで、身体診察は患者さんに安心を与える役割の一端を担います(セクハラになっちゃいけません)。診察として”触れる”という行為は、親御さんや地域のかたがたが「いたいのいたいのとんでけー」とおまじないをしてくれたことと重なるでしょう。お腹が痛い時にさすってくれたことと重なるでしょう。熱が出てつらい時に冷やしたタオルを当ててくれたことと重なるでしょう。

 入院患者さんに対しても同じこと。入院患者さんは、いつもと違う環境で、この先どうなるのだろうという不安を持ち、孤独な時間も過ごします。医者が来てお話をして診察をする。こんな些細な事で、医者は”安心を処方する”ことができるのです。それを意識してやってみるととても良いのではないでしょうか。同じ診察でも「患者さんに安心を処方するんだ」と思いながら行なうと、それはにじみ出てくるもの。そしてこれは医者に限りません。医療従事者全体がそのようにできるのだと思います。

 語源は違うようですが、”手当て”という言葉もそのように考えられましょう。身体診察は手を当てることでもあり、”手当て”でもあるのでございます。

 身体診察は治療的な意義を持ちます。それを活かすことで、身体に注目することが実は精神療法になるんです。「精神療法なんて、精神科は口先で訳のわからないことを言ってやがる」といつも思っているかもしれませんが、そんな謎の行為ではなく、精神科以外の先生も”触れる”ことを通して患者さんとの相互作用を産み出せるのですよ。
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コメント
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dot 2015.05.17 18:14 | 編集
触れる側も触れられる側もそれぞれの安心感を共有してるような感じがします。身体から精神療法をする、とても納得です。精神科外来ではなかなかお目にかからないです。セクハラになってしまうのでしょうかね?触れる目的がないから触れないだけなのかな。それに代わるものが言葉なのでしょうか。そう考えると精神科は、他科より武器が一つ少ない分、言葉はより大切な武器ですね。
ノラdot 2015.05.18 21:03 | 編集
管理人用閲覧コメントをくださったかた、ありがとうございます。

そうですね。医療従事者でなくとも、人と接するお仕事であれば(かつ”触れる”ということが自然に行なえるのであれば)、おっしゃるようにどんな人も”触れる”ことに大切な意義をもたらすことができますね。
母親的なイメージのあるお仕事だと相性が良いでしょうし、触れる側もそういう希望を託しながら触れると、伝わってくれるのだと思います。
m03a076ddot 2015.05.20 07:57 | 編集
>ノラさん

ありがとうございます。
精神科でも触れること・身体診察をすることは必要に応じてありますが、”触れる”は人と人との距離がなくなることにもなります。それが精神科の患者さんにとって迫ってくる恐怖のように感じることもありますし、退行(子ども返り)を促してしまうこともあります。
触れずに言葉を介するということは、2人の間に距離ができます。この距離をほどよくゆとりのあるものに組み立てていくのが、言葉のプロ(?)である精神科の役割なのかもしれませんね。
m03a076ddot 2015.05.20 08:27 | 編集
精神科でも触れる・身体観察があるんですね。自分が経験したことがないから、知りませんでした。スイマセン。触れるにも、退行というものがあるのは初めて知りました。色々とお勉強になります。
ノラdot 2015.05.20 21:02 | 編集
>ノラさん

ありがとうございます。
焦りばかりになってしまっている患者さんに落ち着いてもらうために、手で脈をとるということをすることがあります。本格的な身体診察はなかなかしませんが…。
身体疾患を疑う、認知症の状態を診るためには身体診察が重要視されます。
とはいえ専ら言葉を使うことを生業とはしますが。
m03a076ddot 2015.05.22 09:37 | 編集
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