2018
02.07

臨床のワンフレーズ(23):ともにある

Category: ★精神科生活
 患者さんは症状へのとらわれが生じており、症状から脱しよう/症状を打ち消そうともがくことで更に症状を産み、それに苦しむというループにはまっています。これを何とかしたいなぁということで、色んなフレーズを使って新しい ”気づき” を患者さんに得てもらえるように自分は働きかけています。

 症状を見つめることができる、というのが目標で、お薬は症状を少し軽くして患者さんがそれと距離を持てるようにするために用います。”あばれ馬”を少々落ち着かせる様なイメージでしょうか。そうすると付き合いやすくなりますよね。決して症状をゼロにするために用いるわけじゃあないんです。でも一番苦しい時はやっぱり少しでも楽になりたいのが人情で、そんな時に「さあ症状を見つめましょう」と言われても「いや、ちょっとそんなのいいから…」となるでしょう。お薬はそういう時に役立つものですし、やっぱりこういうのはタイミングが重要。

 患者さんに上記の様なループを説明すると「気を逸らせばいいんですか?」「気にしないようにするのがいいんですか?」と質問を受けます。しかし、これも症状にとらわれていることになっているような気がします。往々にして、気を逸らそうとすると/気にしないようにすると、かえって気になるという結果になってしまいます。「気にしちゃいけない、気にしちゃいけない…」と思えば思うほど…、なのです。それらがすぐに成功していれば精神科の病院には来ていないわけで、受診しているということは、気を逸らそうとしてもダメだった、気にしないようにしてもダメだった、からでしょう。患者さんは手詰まりになり、受診という行為に至ります。もちろん、お薬で症状が軽くなって気を逸らせるようになったり気にしないようにできたりすることもあり、それはそれで良いことです。

 受診するまでに患者さんは様々なトライをしています。それが残念ながら功を奏さなかったので、病院に来る。となると、私たち精神科医としては、新しいものの見方に気づいてもらうことが一番の仕事になるでしょう。それが、症状と戦わずに見つめるという視点 (前述のように、その視点の提供にはタイミングがあります)。少し前の流行歌ではないですが、日本的な表現の ”ありのまま” ”あるがまま” を考えてもらうことになります。ちなみに、レリゴーさんが流行っちゃってから ”ありのまま” が使い古されて手垢にまみれ陳腐な感じがしてしまって、診察でこの言葉を出すことがなくなってしまいました…。むむむ。

 ということで、私たちは色んな物事や感情と ”ともにある” んだ、ということに気づいてくれないかなと思って診察をします。これまでのワンフレーズでもお伝えしたように、症状そのものは決して悪いものではない。それにとらわれなければ、症状は症状にならないと考えています。とらわれるからこそ、症状になりえる。症状と ”ともにある” 感覚を得てもらえれば、とらわれから少しずつ抜け出せるのかもしれません。少々宗教じみていて患者さんによっては「ん?」と思うかもしれませんが、自分は外来時間が少し余裕のある時、こんなエクササイズをすることもあります。

自分「○○さん、ちょっと眼を瞑ってみてください」
患者さん「こうですか?」
自分「そうですね。そうやって、少し静かに。沈黙の時間が流れるように」

・・・・しばし沈黙・・・・

自分「実は、色んな音が聞こえてきませんか?」
患者さん「そうですね、聞こえます」
自分「隣の診察室の声とか、パソコンの音もそうですね。あとどんな音がありますか?」
患者さん「外で車が走る音?」
自分「そうですね。音以外だと、例えば○○さんは呼吸をしているから、肺が膨らんでしぼむという感覚も」
患者さん「あ、そうですね。あります」
自分「もちろん診察室で眼を瞑って黙っているという少し不思議な感覚も」
患者さん「そうですね(笑)」
自分「ま、このくらいにしましょうか」
患者さん「はい」
自分「もっと長く続けていれば、同じ姿勢で座ってお尻や腰が痛くなる感覚も出てくるかもしれんですね」
患者さん「はい」
自分「で、何が言いたいかというと、私たちって色んな事とともにあるってことなんです。普段は気づいていないけれど、たくさんの事が起こっている」
患者さん「そうですねー」
自分「○○さんの感覚もそうですね。無数の身体の感覚やこころの感覚が起こっていて、それとともにある」
患者さん「はい」
自分「だから、○○さんの不安な感覚も、本来ならばともにあることだと思うんです」
患者さん「あー、なるほど…」
自分「でもいつの頃からか、それを否定して、とらわれてしまっている」
患者さん「うーん」
自分「ともにあることを振り払おうとしても、それは消え去りはしないんじゃないかしら」
患者さん「そっか…」
自分「そのとらわれをほぐして、不安とともにある、見つめることがとても自然なこと。そう思います」
患者さん「そうですね…。今まで不安を消そう消そうとしてました…」

 と、周囲の音から始まって、身体感覚や感情なども実は現在進行形で起こっていることであり、私たちと ”ともにある” ものだという気づきを実感してもらいます。それは自然なことであり、とらわれが生じると不自然になっていきます。症状それ自体は敵ではなく、ただただ ”ともにある” もの。それを確認してもらって、見つめる練習を少しずつ取り入れていく。すると、硬いとらわれが徐々に雪解けになっていくでしょう。決して一度ではうまくいきません。そんなに人間は器用ではないので、練習練習。1日に10分でも良いので、毎日練習してみるのが大切なのです。

 練習には、症状があるというのを認めたうえで行動をするというのも含まれますし、上記の様なエクササイズを自宅でやってもらうのも効果的だと思います。今ここでの世界の蠢きとともにある、そんな感覚を得てもらうのがポイントでしょうか。
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コメント
こんにちは
私は精神の患者側です。

私は通っているヨガ教室で、五分間の「瞑想」をします。
目を閉じて視覚を抑える事で、自分自身の内側が見えてくる気がします。

私の場合、内側というのは「ただ、ここにいる」という事だけです。
聞こえてくる音、温度、呼吸の状態、体の力が入ってしまっている所など感じながら、ゆっくり見えてくるのです。
普段はずっと不安が渦巻いている状態なのに、瞑想をしていると気持ちが落ち着きます。

初めのうちは、うまく出来ずに
目を閉じても不安が増えていく感じでした。
でも今は、目を閉じるだけでも少し切り替えが出来るようになりました。

今回の記事を読んで、同感したのでコメントしてみました。
momodot 2018.02.08 21:56 | 編集
>momoさん

ありがとうございます。
最近は "マインドフルネス" という言葉が流行していますが、momoさんが体験されているのもそれに近いものかもしれませんね。
感情や症状とどうお付き合いしていくか、その視点を変えるだけでも自由度が随分と増す、そう思っています。
m03a076ddot 2018.02.11 09:42 | 編集
世界の蠢きと共にある・・・この言葉、すごくいいですね。

常ならぬ世に常を求めると苦しいばかりです。

私は鬱の時、「元気に働けていた私」にしがみついて、「あの状態に戻れないなら死んだ方がマシ」と思い詰めました。

でも今は体調もまあまあ戻り精神的にも余裕ができたためか、刻一刻移り変わる状況を眺めることができて、「おっ、こう来たな。う~ん、じゃあこう行ってみよう」とか「今は動くまい」とか判断できるようになりました。

その判断も間違うことがしばしばですが、そうしたらまた他の方法をやってみれば良いだけのことです。いつもベストな選択をするのは無理だし、生きてさえいたらまたチャンスも来ますから。

もちろん何か起こる度に一喜一憂してますが、「こうでなくては」と考える癖を捨てたおかげで、その時の気分が長引いたり、気分自体に利息がついたり、複利で膨れ上がって身動きがとれなくなったりせずに済んでいます。

おかげで、発症前よりもずいぶん楽になりました。この病気になって色々な思い込みを捨てられて良かったなあ、とさえ思っています。

なんだかエラそうな事を言ってしまいましたが、私の日常は発症前と同じく主婦業です。でも有難いことに、地味な作業が苦になりません。時々は楽しいです。

これがレリゴーなのかなあ、と思います。
yukodot 2018.02.14 13:18 | 編集
>yukoさん

少し離れて自分を見つめることができれば、ちょっと楽になりますね。
ちょっとしたところから変化は始まると思います。
それを大事にしていければ良いのかなと感じています。
m03a076ddot 2018.02.15 19:57 | 編集
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