2014
09.09

診断推論のデッサン

 自分はもともと診断推論が好きでして、特に救急外来でどの様に正解に辿りつくかというのを色々と考えていました。今は精神科になってしまいましたが、かえって深く考えるようになった気がします。精神科は患者さんとの関係性を重視する科ですが、これは診断推論にも言えそうだ、と感じるようになっています。

 問診、診察、そして検査。これらはすべて患者さんと医者との相互作用、”あいだ”でなされるものですね。そこから疾患を明らかにしていって診断する。この”あいだ”という認識を持つことが重要なのだと思います。診断は”する”というよりも”なされる”という意識。

 世の中には診断推論の本が多く出ています。が、ややアートな部分も強調されているものもありますね。難しく書いてあると「なんだか知らないけどすごそうだ」と純粋な研修医は感じてしまいます。”難しいことを難しく言う”ってやつでしょうか。でもそれは研修医に容易に再現できるかどうか。

 診断推論に限らずどんなことでも、基礎と応用というのがあります。アートを強調すると格好良いですが、基礎の色合いが抜けて応用が強まります。数学に例えるなら、何も勉強せずにいきなり赤チャートに臨むような。

 よって、面白みを感じなくてもまずは基礎を固めることが大事。「そんなんわかってるよ」というレベルから見直してみましょう。泥臭さを大事にする姿勢こそが応用力を高めますし、名医と呼ばれる先生方も、基礎を盤石にしてその上に彼らなりのアートな部分を強めています。絵画ではピカソが有名でしょう。彼は絵画のスタイルが激しく変化しており、私たちはキュビズムという「なんだこれ?」と思ってしまうような(失礼!)衝撃的な作風を美術の教科書で覚えています。そんなピカソも青の時代やばら色の時代の絵画、そして10代のものを見てみるとわかりますが、デッサン能力が非常に高いことが分かります。ピカソに限らず、画家はまずデッサンが出来なければ話にならない。その上で独特な手法を構築しています。

 要は、優れたデッサンができること。地味ですがこの練習を無視してしまうと発展できません。研修医のうちはこのデッサン力を上げていくことに腐心すべきでしょう。それは基本的な病歴聴取や診察の正確さ、検査の正しい解釈。良質なエビデンスが出ているものがあれば積極的に作用しますし、エビデンスそのものの使い方も含まれるでしょう(”エビデンスに使われる”のはご法度)。それらが患者さんと医者との”あいだ”でなされるという意識を持つ。

 特に重要なのは、病歴聴取だと思います。それは”言葉”を介してなされるものであり、かつ1人1人の患者さんと医者とは異なる文化に属するという意識が必要です。私たちの発する”言葉”が患者さんの文化でどのように解釈されるのか。患者さんの発する”言葉”が私たちの文化でどのように解釈されるのか。”言葉”の持つ力に着目し理解することは、デッサンに含まれるでしょう。

 ”言葉”は混沌をから意味を切り取るという分節性を持ちます。しかし、文化によって切り取る部位が異なるため、”言葉”はどんな人でも全く同じ意味を持つわけではありません。切り取るがゆえに、それ次第では意味合いが異なるという恣意性すら持ちます。患者さんと医者とは異文化であるという認識を持ち「この患者さんの言うこの言葉は、私たちが理解している意味と同一であろうか」「私たちが使うこの言葉は、患者さんに同じように理解されているだろうか」という疑問を持つべきです。そして「患者さんの表現を、自分は勝手に解釈していないだろうか」と立ち止りましょう。その理解を意識することで、病歴聴取は正確さを増しますし、それによって診察や検査の”意味”をしっかりとま考えることにつながります。研修医はこれの認識が薄いので、誤った理解をしてしまうことが多いです。よって、病歴も患者さんの言葉をそのまま書くことがとても大事。カルテに生々しさ・臨場感をもたらすことこそ、患者さんの言葉を考える第一歩になります。そして、その生々しさから患者さんの生活や人生が透けて見えてきます。通院治療・入院治療における患者さんとの関係性において、症状や言葉の背景に患者さん1人1人の生き様を見ることが、医者のなすべき基本的な姿勢と思っています。

 自分の言うデッサンは、上述したような診断推論そのものの基礎的能力の他にもう1つあります。患者さんから得た情報を描き、それと自らが描いている鑑別疾患の像とを比較し、その”あいだ”からさらに情報を収集し描写をより詳細にすることをも意味します。患者さんから得た情報からのデッサン、自分の持つ鑑別疾患の経過のデッサン、そして互いを比較し足りないところを補足描写し、新しいデッサンが生み出される。その繰り返しによって、私たちの診断能力は向上していく、そう考えています。よって、各論的な部分ももちろん重要。鑑別疾患の像を知らないと、患者さんから得る情報も少なくなり、また見過ごされてしまいます。それぞれの疾患の像をきちんとデッサンできることも忘れてはいけません。

 言葉の持つ力をよーく考えてみましょう。当然過ぎるためか診断学のテキストではサラっとしか触れられていませんが、当然ということは意識しづらいことでもあります。そこを意識に昇らせることがデッサンをより精緻にすることでしょう。
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コメント
逆に、患者としては、ファーストコンタクトの取り方が大事なんだと思いました。また、精神科に通院する年代になると病歴や、親族歴があやふやになり数年後に出てくる事もよくあるので、たまにメモっておいています。先日40年近く前の事を思い出しました。どこかの精神病院の公園で遊んでいた事です。それを主治医と解きほぐしていくと、どうも祖父が双極性だった可能性が出てきたり…そこで、主治医も処方に妙な自信を持ったり(?)主治医とのあいだというのか、間合いというのか、とても大事だとおもいますが、これって誰とでもあうものなのでしょうか?逆に合いすぎると不安になってきます。
うたdot 2014.09.10 01:26 | 編集
>うたさん

ありがとうございます。
主治医の先生との空気と言うのは、合わなさすぎるのもダメですが、合い過ぎるのもちょっとよろしくないように思います。やはり”ほどほど”が一番でしょうか。その”ほどほど”が難しいんですが。。。
m03a076ddot 2014.09.12 19:18 | 編集
ありがとうございます。そうなんですよね。医学的にやりにくくなりますよね。結局場の居心地が良すぎると、病気本質と向き合いにくくなる感じはしますね。先生方の方も診察での推測もたてにくくなるだろうし。どういう関係が良いのかも難しいですね。一対一ですし。
うたdot 2014.09.14 15:18 | 編集
>うたさん

ありがとうございます。
医者側も患者さん側もやりづらくなるかもしれませんね。患者さんの方も医者に言いづらくなってしまうこともあるでしょうし。
そのちょうど良い塩梅を診察の過程でお互い見つけていくものかもしれません。
m03a076ddot 2014.09.16 23:45 | 編集
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