2014
01.23

覚書その8~支持的精神療法のススメ

Category: ★精神科生活
 今回は、覚書の0-7までお話ししたことを踏まえて、実際どういう接し方を患者さんにすればいいんだろうか? ということについて考えています。あくまでも基本姿勢だとは思いますが…。また、心理士の先生は大学や大学院などでしっかりと心理学を学ばれるんですけど、精神科の若手は学生の頃も研修医の頃もそういう勉強はせず、精神科医になっていきなり色んな考えに触れることになります。それにびっくりして「難しいなぁ…」と感じてそういう目線が疎かになりがち。自分の覚書はその入門みたいに考えてもらえたらと思ってます(あくまで若手用)。だから心理士の先生や勉強をしっかりされている精神科医は「何を当然なことを…」と思われるでしょうが、ご了承ください。

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 これまで言ってきているように、症状は抱えられない部分が表出されたものであると同時に、“あいだ”を辛うじて耐えられるようにしようという努力の産物。私たちは患者さんの症状の裏には何かの意味が隠れているという認識を持つことがとても大事になってきます。苦しいことは苦しいけれども、何とか不恰好ながらも編み出した安定を手放すのも恐怖。患者さんの中にこの矛盾が存在することは意識しておかなきゃならんことでしょう。ただし、そのコーピングは長期的に見て不適応となってしまっています。

 症状は切符みたいなもんで、その裏に何かある。そこに治療のヒントを見て患者さんとともに心の深層をどんどん探っていくのが、精神分析の考え方です。一方、支持的精神療法といわれる治療法は

安心して回復できない事情があろうから、無理をしないで安心できる条件をゆっくりと探っていきましょうかね

 という治療法で、その中で

これまでのやり方では無理があったんじゃなかろうか

 というのを上手く気づいてもらおうとします。気づいてもらうまでヒントを小出しにしながら待つ治療者もいれば、積極的に働きかけて一緒に分かっていこうとする治療者もいます。治療者の性格によるのかもしれませんね。原因っていうのはなかなか探し当てるのが難しいもんです。幼少期の辛い体験もあるかもしれんし、生来的な脆弱性もあるかもしれん。色んな事が複雑に絡み合っているのが事実でしょうし、“患者”となった今では症状すらも絡み合う要素の1つかもしれませんよね。だから、直線的な原因を血眼になって探すのは徒労に終わりがち。責任の擦り付け合いになってしまうことだってあります。それよりも、とりあえずこれからの解決に役立ちそうな原因を患者さんと治療者の合意で設定して、苦しい“あいだ”の緩和を図ることが大事だと思います。ちょっと今までのやり方が最近上手くいかなくなって、いつの間にか自身や他人や状況を責め合うというのが、“あいだ”では行われています。それを変化させる、すなわち自身や他人や状況を肯定的に見ることが出来るように、治療者は向かっていくことになります。

 笠原先生の“うつ病に対する小精神療法”もこの支持的精神療法を基本的な骨格としています。支持的精神療法は、診察室内を患者にとって安心できる場所とし、そして当座の困っていることと“あいだ”に焦点を当てて、治療者は後ろで見守るイメージを持ちながら共に解決を図ること。これを繰り返す結果、患者さんは本人の有しているレジリエンスによって回復/成熟していきます。この療法を行う治療者は、症状の緩和とともに、患者さんの苦しい“あいだ”の中で動かしても安全な駒を動かして、患者さんや“あいだ”の人々が持つ負のオーラみたいなものを綺麗にしていくことを目指していきます。

現実的な着目点

 それによって患者さんがしなやかに回復/成熟していくのをサポートする役目となります。その途中で“あいだ”が苦しくなった側面に“気づき”をもたらすことを目標とします。

 精神分析は、確かに本とかを読んでいると「これこそ精神科チックな治療法だな~」と思いますし、そこに呆れてしまう人も惹かれる人も出てくるでしょう。ただ、専門家以外から見ると、離れ業というかアクロバティックというか、そんな側面も否めません。コテコテの精神分析ではなくて、対面式の精神分析的精神療法というのもありますが、それも同様。問題は

「若手にそれが出来るんか???」

 という現実的なお話。真似事という程度なら患者さんに害を与えてしまうんじゃないか?という疑問は絶えずめぐると思います。精神分析に詳しい上級医にしっかりとサポートしてもらいながらというのもありますが、そういう環境に恵まれてない若手も少なくありません。しかも1回の診察時間が長く、また頻度も週に1回以上ですから、たくさん診ることはムリムリ。ということは、私たちはまず後者の支持的精神療法を身に付けるのが最善の策でございますね。生兵法は大怪我のもとでございます。

 どんな精神療法も基本は“支持”です。その基本を学ばずに診療を行う若手のどれだけ多いことか。精神科は、実は日々の外来の診察の仕方というのをしっかりと上級医から学ぶということが多くありません。座学でパラパラっと予診の取り方を学んで上級医の初診に付く程度で、その後は例えば上級医の初診患者さんの再診を行ったり、前に他の先生が診ていた患者さんの引き継ぎ診療を行ったり、自身で外来をすることになります。基本的な外来診療の骨格を知らないままにその人なりのスタイルで診療を続けてしまうので、最初に言ったような「あなたの性格を直さないとこの病気は治らない」「あなたの考え方が歪んでるからうつ病になっている」という台詞を早々にスパーンと口に出してしまう治療者も現実に出てきます。

 そうならないためにも、ありきたりで使い古されたこの“支持”という言葉を今一度見直してみませんか?というのがこの覚書の主眼です。精神分析的精神療法の様な治療法は確かに格好良い。でも経験のない若手がそれを真似るのは難しい。まずはこの泥臭い支持によって診察の場を安全なものにするということが、若手の身の丈に合った方法だと思っています。自分の好きな言葉に、リュムケという先生の「深層心理学も良いけど“浅層心理学”も大事だよ」と言うのがあります。どんどんこころの中を深く切り込んでいくのもありっちゃありですけど、患者さんの日常生活を大事にして、そこを柔らかな眼差しとともにまず安定に持っていく。それが出来るようになってから認知行動療法を学んでみるも良し、精神分析や精神分析的精神療法に進んでいくも良し、あなた自身に合うものを探してどんどん勉強。ちょろっと乱暴に言ってしまうと、患者さんが回復して成熟するのなら、治療“法”は何だって良いのかもしれませんよ。態度としての支持を身に付けたのなら、色んな方法を学んで吸収してみるのが良いんだと思ってます。

 また、支持的精神療法だからといって傾聴共感のみかというとそうではなく、きちんと分析的な見方を持っているんです、実は。特に“転移/逆転移”という概念は必須と思って良いでしょう。そういうこともあって、ここまで分析的なお話を少ししてきましたし、それは“転移/逆転移”の理解に必要です。すなわち、私たちは、支持というものといくばくかの分析的知識を学ぶことが目標となります。

 まず私たちがなすべきは、患者さんの置かれた状況を理解し、その状況ならそのように苦しむのも無理はないでしょうという認証を患者さんに与えることです。同じ話の繰り返しですが、共感は行うタイミングによっては裏目に出ることがあります。見せかけの共感、これを同情と言っても良いでしょうが、危険なことにそれは患者さんの

この苦しみを健康なお前なんかにあっさり分かられてたまるか!

 という思いを刺激してしまうこともあります。患者さんは反発してしまい、奥底に響くことはないでしょう。パブロフの犬のようにすぐ共感を反射的に行うのではなく、患者さんの事情を良~く鑑みて、現在の状態を認めるところから始めましょう。治療者に認証されることは、患者さんに一定の安心感を与えると思います。でも「認証するって言ってもなかなか難しいよ」という時もあります。その時は、患者さんの言葉を繰り返して、わからないところをもっと詳しく聞くと認証出来るんじゃなかろうかと思って質問をしてみることが大事。ここで下坂幸三先生のお言葉を長々と引用してみます。

患者と家族の訴えは、なぞるような気持ちで聞く。たとえば習字の練習帳をなぞる。あの感覚を想い出してほしい。彼らの話しのなぞりきれないときには、待ったをかけて(中略)様々に説明してもらうと、どうにかまたなぞれるようになる。こうしたなぞりを怠っていると何度会っても半解りのままで進むことになる。(中略)医学界では、「患者から学ぶ」というスローガンが流行っているが、私が日常の面接で行っているのは、そのような事事しいものではない。彼らの話しを「なぞって繰り返し」ているだけである。
この繰り返しも多年大事にしてきた。すなわち、患者・家族の訴え、それぞれの言い分を聴いて、それらの要点を繰り返し、こういうことでしょうかと念を押す。この言語的確認は、極めて単純な面接技術だが威力がある。
自分が話したことが治療者という他人から発語され、わが身に再び戻ってくるということは日常経験には属さない。新鮮な体験といえよう。そして聞き届けられたといういささかの安堵を得ることもできる。しかも、患者・家族の自己認知が、自他に、よりはっきり刻印される第一歩となる。(下坂幸三.心理療法の常識.東京:金剛出版;1998)


 “なぞって繰り返す”、そして、なぞりきれないところは、なぞれるように質問をしてみる。その結果、「あぁ、なるほど。あなたのそういう状況ならそうなるのも無理はないですね」という理解を示せるようになります。これがとっても重要。なるほど、と思えるようになるのがポイントです。わからないところを無理やりわかろうとするのはやめましょう。

 前述のように、患者さんに安心を与え、かりそめの安定から動けるような条件を少しずつ整え、患者さん本人が自ずと動く時を優しく待つという姿勢が支持的精神療法の関わり方でございます。そのように考えると、私たち治療者のとるべき役割が見えてくるんじゃなかろうか。多くは後述しますが、大原則として治療者の態度は“変わらない”というのが挙げられましょう。患者さんは“あいだ”に苦しんでいます。その“あいだ”は、人と人との間です。それの端的な例として統合失調症の“病院内寛解”を挙げてみます。これは、入院している統合失調症患者さんが、病院の中では症状もなく過ごしているのに、じゃあ退院しようかといって退院すると調子を崩して再入院してしまうようなことを指します。このことは、病院内の“あいだ”が患者さんにとってほどよく、退院後の家や地域の“あいだ”が苦しいものであることを示しているでしょう。

 “あいだ”の力はそれほどまでに大きいのです。これまでお話しして来たように、精神科の患者さんは“あいだ”における抱えられなさから自身を守るために症状を発露している部分があります。その症状は自身を侵襲的な“あいだ”から守る作用を持っているでしょうが、同時に長期的な視野では不適応となってしまっています。

 患者さんは”あいだ”に苦しんでいる、ということは、身の回りの対象関係/対人関係で支持されてこなかったと感じているわけですね。よって、私たち治療者は基本形を支持的なものとし、変わらない態度で患者さんと呼応することが求められます。治療者の態度が秋の空のようにコロコロと変わりやすかったり、苦しい“あいだ”と同様のものだったりすると、患者さんも戸惑いを隠せないでしょう。支持的で変わらない治療者の態度、それは患者さんにとって侵襲的でない“あいだ”にもなり、若手は取っ掛かりとしてこれを漂わせるのが求められます。

治療者としての振る舞い

 この“治療者の態度がコロコロと変わりやすかったり、苦しい“あいだ”と同様のものだったりする“というのは、患者さん側からすると例えば「どこにいても休まらん」という感覚を起こしたり、養育環境に問題があったなら「私のことを分かってくれなかったお母さんと同じだ」などというイメージを、ある時は意識的に、ある時は無意識的に与えたりするかもしれません。こういうのをきっかけにして診療を展開させることも可能ですが、少なくとも患者さんとの出会いの初期は診察の場における“あいだ”を安定したものにしようという心がけが優先されるべきものだと思います。

 もちろん、“変わらない”というのは“能面であれ”ということではありません。患者さんと共に喜ぶこともあるでしょうし、悲しむこともあるでしょう。患者さんの怒りにこちらも反応することだってあるでしょう。ただし、そういう共振はあくまで治療者の範囲内であることが求められます。治療者は患者さんのお友達や家族じゃありません。患者さんの感情と自身の感情とを考えながら、大きくぶれない存在が治療者です。

 この“変わらない”ことは治療者のみならず、治療の場も同じと考えて良いでしょう。診察の頻度がバラバラであったり診察時間もバラバラであったりすることは、物理的な“あいだ”が不安定なことにもつながり、あまり治療的ではありません。

 優しく待つという点からは、治療者は口を多く挟まないことも具体例として出てくると思います。治療者の方が多くを話し指導をするようなら、それは治療者の考えを患者に押し付けることになりかねません。後ろで見守り、時には共に考え、動かしても良さそうなところからそっと動かして条件を整えていく態度、これが治療者として基本になります。サリヴァン先生のおっしゃるvocal的な要素なども言葉に乗せるものとして大事ですね。

 これまでのお話に付け加えるとすると、先ほど「患者さんの感情と自身の感情とを考えながら、大きくぶれない存在が治療者です」とさらっと言いました。でも実は、結構これが難しいんです。例を出してみましょう。いつも好き勝手に診察をキャンセルしたり予約外に来たり電話をしょっちゅうかけてくる患者さん。普段の生活でも周りの人が困っておりました。診察の時間をもっと伸ばしてほしいと言ってきて、時間は決められているので延長は難しい旨を話したというシーンを思い浮かべてみてください。

「先生って、ホントに自分勝手ですよね!」
<は?あなたの方こそいつも診察に来なかったりしてるでしょう>
「何言ってんの?たった15分の診察で何が分かんの!?」
<あなたがいつも喚き散らして全然話が前に進んでないんじゃないか!>
「何その言い方!!先生が話聞かないからでしょ!」

 あー想像するだけで胃が痛くなる。。。こうなると泥沼ですね。患者さんの日常の“あいだ”が診察の“あいだ”に持ち込まれてしまっています。これにどうやって返せば良いのかというのは難しいんですが、抽象的なポイントとしては、こっちが強い感情を抱いてしまう時は、ちょっと一呼吸置いて

このままだと、患者さんの世界の“あいだ”に入っちゃうんじゃないか…?

と考えてみましょう。踏み込んでしまうと治療者は治療者でなくなってしまうかもしれません。注目点は、こちら側の感情が揺れる時。それは良い感情にせよ悪い感情にせよ、そこに気づいて「診察の“あいだ”が崩れようとしてるんじゃないか?」という考えを持つことだと思います。そういう考えを持てるなら、こっちの感情が揺れてもモニタリングできますね。激しい荒波の中にいても、何とか治療者として生き残ることが大事。

 さて、ここで再びビオンを導きの糸として支持的な治療の概観を見てみましょう。患者さんは生活の中で折り合いのつかない部分、換言すれば自身で抱えられないものに苦しんでいます。その苦しみが表面的に症状となり、受診への切符として働くでしょう。診察の場では、「症状が辛いから何とかしてくれ」として訴えを治療者に投げかけてくるため、治療者は容器(コンテイナー)としてそれをいったん保持することとなります。

分析的と支持的

 精神分析的には、患者さんの今置かれている状況や過去の体験などを考慮し、それを患者さんが抱えられそうな形に変えて適切なタイミングで返すということをします(図上部)。

 支持的精神療法ではそれをいったん治療者が預かることで認証と安心を与え、その形を変えるというよりも他の動かせる部分を動かすという作業が大部になります。その結果患者さんが抱えられる状態になり、治療者は「これまでのやり方を見直してみましょうね」というメッセージを添えて、預かっていたものを患者に戻すと言えるのではないでしょうか(図下部)。

 それが達成されるまで試行錯誤を繰り返すのが精神科の診療と言えるかもしれません。精神分析では、幼少期に代表される過去から現在に繋がる潜在的な苦しい“あいだ”を探っていき、支持的精神療法では現在見えている苦しい“あいだ”を調整していき、患者さんにこれまでの生き方のまずさに気づいてもらうとも言えます。といっても“まずさ”を患者さんにダイレクトに伝えるのではなく、これまでの生き方にも肯定的なライトを当てましょう。「ようここまで頑張ってやってきたね」と認めたうえで「これからを考えていきましょうや」という流れ。

 治ってもらうということは、いずれにしても治療者が“あいだ”に介入することが求められます。これは、表面的な症状を薬剤で和らげても“あいだ”が変わらなければ元の木阿弥になりかねないと思います。患者さんはこれまでの“あいだ”に苦しんだからこそ精神科に来ているのであって、その“あいだ”に戻ったらまた同じ事の繰り返しになりかねません。

ループ

 患者さんは往々にして「前の様に元気に戻りたい」と言います。しかし、その「前の様」は、苦しかった“あいだ”でもあります。前の様に戻ったら、またいずれ病気の芽が出てくるかもしれない。これを知ってもらいましょう。

これまでのやり方には不安定で危ういところがあって、無理が昂じて発病したのかも

 この部分に気づきをもたらすのが治療の目標。病気の前よりも安定してゆとりのある状態、こころの不自由さに折り合いがつく状態になることを患者さんと私たちの合意とする必要があり、折りにふれこのことを伝えておくと良いでしょう。患者さんはどうしても“治る=前の様になる=症状が皆無=幸せな状態になる”と考えがちです。そうではなく“治る”というのは、つらさをつらさとして、悲哀を悲哀として患者さん自身で抱えられるようになることなんです。苦悩に耐える力を持てるようになることです。1人で何でも頑張るのではなく、他の人の協力を得る時にしっかりと得るように出来ることです。「われわれの人生は織り糸で織られているが、良い糸も悪い糸も混じっている」というのはシェイクスピアの言葉。良い糸と悪い糸が両方あって、それらが反発しあわずに織り合わされることで、しっかりと人生は出来上がっていくものでしょう。

 治療者の思う“治る”は回復ということも意味しますし、また患者さんが成長していくことをも意味します。治療の主体は患者さん。「医者や薬は松葉杖で、それを使って実際に歩くのはあなたですよ」これを少しずつ患者さん本人に意識してもらうことは、治療者が患者さんの人生を尊重する存在であることを知らせる引き金にもなります。いつまでも治療者が患者さんを抱え込んでいては、患者さんは巣立てません。ちなみに、少し前まで自分は患者さんに「治療っていうのは、あなたと私との2人3脚みたいなもんですよ」と言っていたんですが、最近は主体をより意識してもらおうかなと思って“松葉杖”という言い方に変えています。どっちが良いかは患者さんにもよるかもしれませんね。

 ここで注意して欲しいのは、相互依存が悪いと言っているわけではないということ。日常の場で“健康に相互依存できる(健康に甘えられる)”ようになるために、治療の場で患者さんの主体性の色を、治療の時期を見ながらですが、濃くしていくことが求められるということなんです。ウィニコット的に言うと“ひとりでいられる能力”を高めてもらうことが目標。単なる“回復”ではなく“回復/成熟”というのが治療者の持つべき目線ではないでしょうか。

 そのためにも治療者は上述のように“変わらない”ことが求められるでしょうし、まずは支持を基本とすることが必要となりましょう。治療者の考えをずらずらと述べて患者さんを指導しようと思ってしまうと、それは容器として働かないことが多いのです。これは逆に患者さんが容器になって、治療者の意見を押し込められることになると考えられはしないでしょうか。治療者が保持して返すという部分、これこそが治療者の頭を凝らすところで、精神分析では様々な人が様々なことを言う部分でもあります。

 若手として、ガチガチな精神分析をやらない医者としての現実的なラインは、なぞることで認証し、それによる支持を行い、症状や状況のプラスの側面をお伝えしたうえで患者さんの今の苦しい“あいだ”で動かせる部分を動かす、そして「今までのやり方を見直してみませんかね」という附録を付けて返すことだと考えています。それも、今までを否定するのではなく、それを肯定的に認めたうえで、今後のためにやり方を見直してみましょうかということ。土居健郎先生が指摘していますが、容器となり包み込む/抱えることで患者さんは健全に“甘える”ことができます。支持という点からずれて治療者が色々と“甘やかして”しまうのなら、それは患者さんにとって先を越されるようなもので、自然に甘えることが難しくなってしまうでしょう。

 と、非常に偉そうなことを言っていますが、自分も常にこれが出来ているとは言い難いです(むむむ…)。こうでありたいという気持ちはあるんですが、例えば外来で疲弊している時や、自分自身の“あいだ”が良くない時なんかは、意図せずにちょっときつくなっていることもあるんですよね…。というのも、患者さんから「この前先生にこんなきついこと言われた」と診察の場で聞いたんです。自分では全く覚えがなくて「へ? そんなこと私が言ったの?」と返してしまいました…。その時は思い返すとちょっと気持ちがイライラしていて診察が荒かったような気がします。なので、治療者は自らのこころの健康管理も大事ですね。そんなことを反省しながら、次章では“転移/逆転移”を見ていきたいと思います。
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コメント
管理人用閲覧コメントを下さったかた、ありがとうございます。

”あいだ”というのを考えると、人間の色んな側面が見えてきて興味深いなぁと思っています。私は”私”の世界を生きているけれども、同時に”私たち”の世界も生きていて、それが精神科的な問題にもなれば回復の力にもなってくれます。そこをどう活用するかがポイントなのかもしれません。
ベンゾの減量は1種類1種類で攻めた方が良いかもしれません。あまり急には行なわず、じっくりとやっていくのが大事だと思います。
言い方は悪いかもしれませんが、実験精神を持つのが良いと自分は患者さんにお伝えしています。実験には失敗がなく、たとえとある減量スピードで離脱症状が出たら、そういう”データ”が取れたことになります。それを次に活かしていくことができるので、貴重だと思います。次に活かせる材料を得られたというのは、大きなことだと考えています。
m03a076ddot 2014.02.10 19:56 | 編集
>管理人用閲覧コメントを下さったかた、ありがとうございます。

教師の方々も日々お子さんへの関わりで発見されることが多いかと思います。
関わるというのは、原点はウィニコットという児童精神科医の言う”ほどよい母親(good enough mother)”ですね。ほどよさというのは易しいようでいて難しいですが、一生かけて求めるものなのかもしれません。
お薬はゆっくりゆっくりで行きましょう。それが最大のポイントだと思っています。
m03a076ddot 2014.02.11 22:02 | 編集
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