2013
09.06

覚書その5~精神発達論をちょっと体験

Category: ★精神科生活
 前回の器質力動論はどうだったでしょうか。解体(心的水準の低下)の深さと速さという視点はなかなか興味深いと思っています。今回はコテコテの精神分析。

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 精神科では、精神分析の考えとして“発達理論”というのがあります。私がこれまでお話ししたこころの成長というのも、この発達理論、特にクライン派とウィニコットのものを大いに参考にしています。しかし、これの元祖はやはりフロイト先生。その後はその考えを強めたり、それに反対したり、など色々な発達理論が展開されて今に至ります。“口唇期”とか“肛門期”というのを聞いたことがあるかと思いますが、「肛門かよ!やっぱおかしいわ精神科…」と、精神科の特殊性を強烈にするネーミングですよね。“男根”とか“糞便”とか“乳房”とか、精神科に入って特に精神分析の勉強のためにこんな言葉が書かれてある本を結構読みましたが、ハタから見たら変態かと…。名前がやっぱり良くないんじゃないかしら、と思ってしまうこともちょろっと。昔は赤面恐怖について「この患者の顔がペニスになっている。だから恥ずかしいんだ!」みたいなことを真面目に言った先生もいたようです。門外漢の私からすると「何言っとるんや…???」となってしまいますね…。それなりの理由があって奥深いんでしょうけど。しかし、なぜこんな性的な名前が付いているのか?

 フロイト先生は“”というものについて深く深く考えておりました。“性”は生殖のために必要なもので、生命そのものを感じさせ、また人同士を結び付ける関係的な力を持っているとも言えましょう。“性”が生物学的な部分と関係的な部分をつなぐ役割をしている、となります。そう考えると“性”を持ちだすのも理解できますよね。

性がつなぐ

 ただ、フロイト先生は子どもの発達を促す力としての性を“小児性愛”名づけました。これがまた批判を浴びまして…。「子どもに“性”だなんて!何言ってんだコイツ!」これも無理からぬご意見。しかし、この場合の“性”はいわゆる“性欲”とは異なるものでして、プラトン的な“エロス”と言えます。対象を希求する力のことですね。この求める力を使って、養育者との関係を発展させて色んな人との社会的な関係をつくる。そして最後に大人の持つ“性欲”もしっかり備わっていきますよ、というのがフロイト先生の理論の概観だと思います。こう言うと「そうかそうか、思いっきり変態と言う訳でもないんだな」と思ってくれるでしょうか。

 精神分析と言えば“性”にまつわるものが多いのですが、特にあの時代は患者さんに高貴な人々が多かったこと、そして性と言うのがオープンではなかったため、性を必要以上に抑え込んでおりました。よって色んな葛藤から症状が性と結び付きやすく、理論を作る上で外せない要因であったというのもあるでしょう。若手としては、“性”を直接“性欲”に結び付けず、“関係を求める力”の例えと思って接した方が良いかもしれません。精神分析の知識、特に発達理論と防衛機制と人格構造の3つは臨床的にも大事だと思われますので、順に章立てしてお話してみたいと思います。まずは以下に、フロイト先生の発達論を大まかに見ていきます。


口唇期:0-1歳代の時期で、授乳がメインとなる身体的な世話というのが性愛的な交流の場となります。授乳は口を介するので、口唇期という名称。まだこの時は、子どもは言葉をもちません。養育者、多くはお母さんですが、その授乳やだっこや撫でることなど、身体の触れ合いを通して、まわりの世界への安心を覚えていきます。そして、その安心に支えられてまわりの世界へ今度は子ども側から関わりを深めていきます。
肛門期:1-2歳代の時期で、トイレットトレーニングに代表される“しつけ”が始まります。だから肛門期。これは“しつけ”を通じて社会としての“約束事”を身につけることでもあります。社会性の基本ができあがって、同時に社会的な約束にそって衝動や欲求を自分の力でコントロールする“意志”の力が養われることになるとされます。ここで“意思”の力も育つんだなというのは、精神科2年目で初めて知りました…。ルールを覚えて、そこで自分もやっていこう!みたいなもんでしょうかね。
男根期:3-4歳代の時期で、子どもは性差を意識し始め、性別という最初のアイデンティティを身につけていきます。女性蔑視だと言われるこの命名ですが、一応、幼児はペニスの有無で性別の違いに気づくという意味で“男根期”という名称になっています…。この時期になると、自分だけのものと思っていたお母さんが実はお父さんとも関係性を持っている、また兄弟にとってもお母さんはお母さんという関係性を持っているという、3人以上の複雑な社会に気づき、そして入っていきます。万能的な自己中心性から社会性に開いていく途上でぶつかる困難が“葛藤”でして、フロイト先生は“エディプス・コンプレックス”と名付けました。当時のヨーロッパは父性が強かったため、エディプス・コンプレックスも父親の存在が大きいですね。特に今の日本の家庭だと母性的な部分の方が大きいので、あんまりエディプス・コンプレックスを勉強しても「はて?」と思う部分があるかもしれません。なので、ここでは“エディプス・コンプレックス”を万能的な世界から社会的な世界への変遷のコンセプトとしてとらえるにとどめます。時代背景と地域性を考慮しましょう。
潜在期:学童期は養育者との性愛的な2人関係の世界は遠くの方に行ってしまい、社会的な3人関係世界が大きく前に出てくることになります。
性器期:養育者との関係に向けられていた性愛から、家族の外の特定の異性へ向けられる性愛へと変わっていきます。性欲性を帯びた大人の意味での性の世界に開かれ、成人期にあたります。しかし、性器期なんて名称、ダイレクト過ぎませんかね。ここで注意が必要ですが、潜在期の後にすぐ性器期という成人期になっていますが、今の社会ではズレが生じています。すなわち、養育能力と生殖能力に開きがありすぎる、ということ。まだ子ども、でも大人。名探偵コナンの逆バージョンみたい?そんな矛盾が、思春期とか青年期と呼ばれ、現代はその延長が言われています。社会が複雑になり、なかなか大人になれるのが難しくなっております。思春期について言っておくと、尾崎豊の歌に代表されるように、彼らは親とか大人に対して葛藤を持っています。その葛藤からひきこもることもありますし、逆に激しい行動を起こしてその葛藤を追い出そうとすることだってあります。そんな入り混じった不安定な時期であることを意識しておかないと、思春期の激しい行動を見て「境界性パーソナリティ障害だ!」とラベルを貼ってしまう失敗を犯しかねません。繊細でありたいですね。

 以上をまとめると、発達というのはこの様に進むと言えましょう。

子どもと母親の未分化な1人関係⇒性愛的な2人関係⇒社会性漂う3人関係

 1人称だけの世界から2人称性が出てきて、そして最後に3人称が登場する、そんな雰囲気を持ってもらうと良いかのかなと思います。こう言うと「あ、そういうことだったのね。男根とか言うからびっくりしたよ」と納得してもらえるでしょうか(どうかな?)。ただ、私がこれまで述べてきたことをプラスさせてもらうと、こういった2人関係も3人関係も“あいだ”の上にその人たちが成り立っているということ。

社会的あいだ

 その中で色んな経験をしていって人は成熟していきます。「大人というものはどんなに苦労が多くても、自分の方から人を愛していける人間になること」とは、いわさきちひろの言葉。沁みますね。

 フロイト先生は0-1歳代を“口唇期”とまとめましたが、乳幼児期の発達をより細かく見ていったのがマーラーという先生。せっかく発達理論に足を踏み入れたんですから、ここも見てしまいましょう。マーラーは以下のように細かく分類しました。

1-2ヶ月:正常な自閉期
2-4ヶ月:正常な共生期
5-36ヶ月:分離-個体期⇒特にこの中で
5-8ヶ月:分化期(母親が異なる存在であると認識し始める時期)
9-14ヶ月:練習期
15-24ヶ月:再接近期

 ただし、月齢で区切るのは人為的なものでして、絶対この範囲に入ると決めつけてはいけません。この中で臨床的に役立つ分離-個体期の中の練習期と再接近期について説明をします。

 練習期はお母さんから少し離れて自由に行動し始める時期。不安や寂しさが強くなると再びお母さんのところに戻って安心安全の確認を行います。お母さんは子どもにとっての精神的な安全基地の役割を果たします。この時期は、子どもはシーツとかぬいぐるみとか、何らかのものを持っていることが多くなります。これは、お母さんに代わる“移行対象”と言われておりますが、純粋な代わりというよりも、ある意味ではお母さんよりも子どもにとって理想的なお母さんとも考えられています。どうしてかと言うと、本物のお母さんのように怒ったりしない、子どもが「いいや!」って思えば捨てることだって出来ちゃう。現実のお母さんみたいに口うるさくないってやつですね。この移行対象は、子どもの万能感を補佐するとともに、お母さんから少し離れるその不安を和らげてくれる役割を持っています。

 再接近期はお母さんから分離しようとする“分離意識”が高まるんですが、完全に分離しようとすると“分離不安”が強まってしまいます。そんな矛盾した感情を内在する時期。お母さんに再接近して“しがみつき”の行動を取ることで“お母さんからの見捨てられ不安”から自分を防衛するんですが、今度は接近し過ぎてお母さんと自分の境界線がなくなり主体性が奪われるような“お母さんに呑みこまれる不安”を感じるようになる、らしいですよ。“見捨てられ不安”が強まると“しがみつき”を見せ、“呑みこまれる不安”が強まると“飛び出し”を見せるんですが、このように相対立する矛盾した感情を同時にもっていることを“両価性(ambivalence)”と言います。不安だらけですごく敏感な時期ですね。

 何か、実に精神科っぽい話をしています。こうやって、お母さんがいなくても大丈夫という、“ひとりでいられる能力”を持つ状態がつくられていきます。これは「俺ってひとりだけどひとりじゃないよね」というような感じでしょうか。物理的にはひとりでも、内的対象としてしっかりとお母さんがいるので不安を抱えることが出来る、ほどよい“あいだ”でつながっているから大丈夫ということ。こうやって、“あいだ”の両端に2人が見えてくることになります。ちょっと詳しく分離-個体期を説明しましたが、これはパーソナリティ障害を力動的に理解するために必要になってきます。どんな理解かを、典型的な自己愛性パーソナリティ障害と境界性パーソナリティ障害の例を挙げてみることとします。細かくなりすぎてしまうとこの覚書の本来の目的とは異なるので、最小限に。第2回の『“患者”になること』に出てきた『統合されないと…?』の図の応用として考えてみましょう。

 マスターソンという先生の考え方と“あいだ”を混ぜてお話しします。なので、マスターソンの考えそのものではありません。自己愛性パーソナリティ障害の患者さんは、練習期の時点で精神発達が止まっているとされ、お母さんとの“あいだ”は万能感の強い、子どもにとっての“良い関係”がかなり優勢。その患者さんのこころは“あいだ”から派生しますから、“良い関係”が強いですね。自己中心的です。よって、他人との“あいだ”も万能的なもの。

自己愛性パーソナリティ障害

 自分を崇拝するような子分みたいな人たちとしか関係を結べません。常に自分のために相手を利用するような関係。この“あいだ”を保とうとするため、自分を攻撃するような人がいる“悪い関係”はどんどん追い出します。“楯突く奴は蹴散らす”みたいなもんでしょうか。では境界性パーソナリティ障害はどうなんでしょうか?この患者さんは再接近期の“見捨てられ不安”が克服できないことが原因と言われます。それによって、“良い関係”“悪い関係”が統合されるようでいてされないような安定しない状態。“見捨てられ不安”と“呑みこまれ不安”という、不安だらけです。その人のこころもこんな状態ですので、他人と接する時の“あいだ”もまずはこの不安なこころで入っていきます。そして、自分が抱えきれないことが出てくると、容易にこの統合が離れてしまって、悪い関係を外に外に出そうとします。それが外見上は激しい“行動化”として現れてくると言えます。

境界性パーソナリティ障害

 この患者さんは“あいだ”の色合いに過敏になっており、他人への接し方が激流のように変わるというのが特徴で、“不安定の中に安定している”なんて言われます。まさに再接近期を再現している感じ。

 さて、発達論の最後は老年期について軽く触れておこうかと思います。最近は高齢化となり、80歳代90歳代、ともすると100歳overの患者さんに出会うことも随分と多く、彼らの心的背景に触れておかねばならんでしょう。そんなこんなで、老年期には老年期独自の精神医学が必要だと言われ、様々な精神科医が探求しました。なので、老年精神医学は最も若い精神医学とも表現できますね。

 老年期。この時期を一言で表すと、“喪失”でしょうか。ちょっとした風邪でも治りが遅くなりますし、その時は「年で身体が弱ってきたなぁ…」と実感しますね。あとは周りの人が亡くなったり離れて行ったり、住み慣れた家を去る、退職するなんてのも。こういったのは老年期に限ったことではないんですが、若いと喪失を上回る創造という力があります。でも年をとるとこの創造が難しくなり、相対的に喪失が鉛の様に重くまとわりついてきます。楽観と言うよりは、どうしても悲観が漂ってしまいますね。それにどう適応するか、喪失を乗り越えるか、生きがいをどう考えていくか、そんな実存的な部分が必要になってきます。

 この老年期にどう向き合うかというのは、これまでの人生をどう歩んできたかということと切り離して考えることは出来ません。特に、中年や初老期以降をその人がどう過ごしてきたか、それが重要な意味を帯びてきます。自分の歴史を振り返って、現在の自分を肯定できるか。老年期、ひいては死というのは、これまでの生き方が反映されます。ルターが言うように「死は人生の終末ではない。生涯の完成である」のですし、またレオナルド・ダ・ヴィンチが指摘するように「充実した一生は、幸福な死をもたらす」と考えられましょう。これまで生きてきたように老年期を迎え、これまで生きてきたように死んでいきます。色んなものを失った現実と向き合い、それを生きる中で自分の生きている意味を見出すというのが、老年期のテーマだと思います。例え身体が動かなくなって“自立”というのが難しくなっても、価値判断を自分の考えに則ってしっかり行える“自律”というのを大事にできる。そんな今の自分そのものを肯定していくことが、喪失でくすんだ老年期という憂いの顔に紅を差すことになるでしょう。

 どうしても医者は老年期の問題をほとんど器質的なもの、脳の問題と考えるフシがあります。でも、必ず変換器としての心理的な背景(後天的な脆弱性)は存在すると思います。困った行動を“認知症の周辺症状”という言葉で片付けるのではなく、どのような人生/環境的な背景でこの行動が出現しているか、それを考えてみましょう。「老いを生きるということに、とてもとても大きな意味があるんだな」と治療者が認識して人生の先輩である高齢患者さんを支えること、これが血の通った診療になると思っています。

 手塚治虫のブラックジャックには『老人と木』という作品があります。老人がケヤキの木を守っているというものですが、この老人は子供の頃に地震で家族を全員失っています。その際、老人だけはケヤキの幹にしがみつき、ケヤキが守ってくれました。年が経つにつれてケヤキが可愛くなり、生活をその木とともに送ります。しかし排気ガスなどの公害によりケヤキは枯れかかり、さらに高層ビルを立てるということで切られることになってしまいました。その老人は最後にケヤキの前で酒を飲み、唄い、ケヤキを綺麗に拭いて、「生まれ変わったらまた会おう」と言い残し、そのケヤキで縊頸を図ります。そこをブラックジャックが手術により救命しますが、ピノコと以下のように話します。

「ね 先生 この人なおったやまた自殺しちゃうわねえ」
「そうだ………そこんとこが問題でな」「死にゃア元も子もないからな」

 目が覚めた老人は、夢を見たことを報告します。ケヤキと対話し、西の峠にケヤキがタネを飛ばしてつくった子ども(幹に白いアザがある)が生えているから、私だと思って面倒を見てくれと頼まれます。実際にブラックジャックとともに西の峠に初めて向かい、そこにはまさに夢で見た通りのケヤキがあったのでした。生きる力を取り戻した老人に、もう憂いはありません。不思議がるピノコにブラックジャックはこう言い、その話は終わります。

「わからんね 死後の世界のことは興味ないよ」「じいさんが生きがいを見つけた それだけでいいじゃないか」

 この話で「もし夢を見なかったらどうすんだ!?」と思うかもしれませんが、私は夢を見たのは必然だったと思います。それまでの生き方、その延長としてこの老人は夢を見たのでしょう。老人の素晴らしい歴史があったからこそ、再び歩き出すことができた。

 ということで、ブラックジャックは医者なら読んでおくべき本だと思います。精神科の訳わからん本よりも優先。荒唐無稽で突っ込みどころは満載なのですが、そんなことはせずにただただ読む。その人と言う存在がどうやって生きてきたか、どうやって生きていくか、どうやって死ぬのか、そのロマンの深淵を味わいましょう。

 次回はこれまた精神分析でして、防衛機制について軽く見てみることにします。
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