2013
07.26

覚書その2~”患者”になること

Category: ★精神科生活
 覚書のその2である今回は、人のこころの成り立ちを精神分析を援用してお話しし、そこから”患者”になるとはどういうことなのかしら?というのを考えてみたいと思います。

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 人はどうやって“精神科の患者”になるんでしょう? 心臓が悪くなったら循環器内科、肝臓が悪くなったら消化器内科に行きますよね。「精神科って言うくらいだから精神だよ。平たく言うとこころってやつだ」とお答えになるかもしれませんが、じゃあそのこころって何よ??

 こころは、人間の歴史において色んな人が考えて色んなことが言われてきました。で、結局のところみんなが満足するような答えというのが出ていないというのが実情っちゃ実情。そんなに深く考えず、それぞれが「こうじゃないかなー」と思えていりゃあそれで良いのかもしれません。ものの考え方っていうのはみんな違いますし、精神科なんてそんなのばっかりですし、大同小異みたいなもんですかね。こんなことを口走ってしまうと「この小異のところが大事なんだよ!てか小と思ってないよ!」というお叱りが各方面から飛んできそうですが、あくまでもこの記事は若手用ということでお許し下さい…。

 さて、この新しいシリーズでは、主に精神科レジデントが患者さんの困っている背景にずかずか立ち入らずに、優しくなれるためにというのを意識してます。専門家が精緻な探求をするという高級なものではありません。ですから、自分の持っている“こころって何だろう”という考えも、それを考慮したものになっています。突っ込んだ説明をし過ぎるとこんがらがるので、あくまでも精神科レジデント用の知識。当たってるかどうかなんて気にしない。上述のように、そもそも正解があるかどうかも怪しいもんです(開き直ったよ!)。

 さて、こころについてです。こころの原基というのは、その人の中で出来てきます。その人が生まれていなければ、その人のこころは出来てくるはずもないでしょう。ここまでは「そりゃそうだよな」と思えます。その後、こころはどう成長していくのでしょう?それについては、自分はベタでしょうが「人と人との関係性の中から成長してくる」という考えを持っています。

 こころのモトはその人の中で出来ますが、それからは養育者(多くはお母さん)との関わりがあって、家族との関わりがあって、学校の先生や友達とも関わりが出来てきます。人との関わりをなくして単なる栄養補給だけ行っても身体は成長するでしょう、たぶんね。しかし、他者との出会いがないということは“わたしであること”を意識しないことにもなります。わたしのこころが存在し成長するためには、わたしがわたしであるという当然の認識が大事になってきます。他人というちょっと変わった鏡を通して“誰とも違うわたし”という存在に気付くと言え、“わたしではない誰か”も意識できますね。“わたし”1人の世界なら“わたし”を知らなくても良いことになり、誰かを知ることで“わたし”という存在にも気付くことになりましょう。おー、なんだか禅問答のようだ。

 ゲノムの話を少しすると、養育体験や大きなライフイベントというのはエピジェネティックな変化(遺伝子の塩基配列の変化を伴わない後天的で可逆的な変化)をもたらすことが知られています。これから見ても、他者との関わりというのは重要なんだなーと分かります。精神科、特に精神分析は幼少期の出来事を聞いて色々と今の状況に風が吹けば桶屋的な解釈(失礼!)を作りますが、そういったものもあながち外れてはいないんじゃないかというのが、このエピジェネティックな変化でも示唆されたのかしらと思います。生物学的精神医学が意外なところで精神分析を助けてくれた様な印象。

 精神科っぽく、最初の他者との出会い、つまりはお母さんですが、その関係性について見てみましょう。“わたし”、ひいてはこころは、ひょっとしたら最初のうちは「お母さんという1つの存在と、わたしという1つの存在、この2つがいる」という認識は出来ていないのではないかと思っています。わたしとお母さんの境界が曖昧で、わたしともお母さんとも判断のつかないような、わたし的母的なこころの存在なのかも? これをちょっと格好つけて“原初の関係性”と言っておきましょう。その渾然一体となった状態の中で、お母さんから色んな良い刺激(満足する世界)や悪い刺激(不安な世界)がある。

 お腹が空いた時を例にとると、お母さんがおっぱいをあげるのは赤ん坊にとって満足することですね。実際には「お母さんからもらう」という認識はなく、赤ん坊というわたしは“満たされた”という世界そのもの。お母さんからおっぱいをもらっても、“満たされた”という事実のみが子どもにとってすべて、イコール世界ですね。お母さんと定義される人、おっぱいという空腹を満たしてくれるもの、自分はお腹が空くとお母さんがおっぱいをくれてそれにより生きられるということ、これらはまだ原初にある赤ん坊には理解出来ません(とされます、いちおう)。逆にお腹が空いて泣いてる時にお母さんが泣き声にイラッとして手を上げてしまうのは甚だ不幸なことですし、お母さんがぐったりしてお世話できなくなってしまうのも大変。赤ん坊からしたら不快の世界そのものでしょう。最初の頃のこの世界は、それはそれは恐ろしく不安なものだと思います。人間は生物学的には未熟な状態で生まれてきますから、そんな赤ん坊が“危険に晒される”というのは自分がバラバラになるんじゃないかというような不安そのもの(解体不安)なんだと思います。こういった良い刺激や悪い刺激は、前述のように赤ん坊のわたしは「ははぁ、この刺激の出所はお母さんだな」と分かることはないでしょう。満足する万能的な“良い世界”、バラバラになりそうな“悪い世界”、これら原初の関係性において色んな反応をする。しかも、満足と不安は一緒にはやって来ず別々に来るでしょうから、最初は “良い”“悪い”というのが、同じ関係性から発祥したものとは分からないかもしれません。
原初の関係性
 時に応じて“良い関係(満足する万能的な関係)”と“悪い関係(バラバラにされる不安な関係)”が行ったり来たりする感じかしら。“良い関係”にいる時は赤ん坊もそれを長い間味わっていたいと思うでしょうし、“悪い関係”にいる時は何が何でもそれを追い出したいと思うでしょう、たぶん。それに対するお母さんの関わりと、その後は神経系が発達してくることも手伝って“外”というのが何となくうっすらとぼんやりと。お母さんのかける言葉や身体の温もりやまなざしなどの“ほどよい”関わりによって、そのうち「あれ、何かあるんじゃね?」と思い始め、2人のこころの境界がじんわりと認識されてくる。そして“良い関係”“悪い関係”という原初的な身体-感覚的イメージから「酸いも甘いも、それをひっくるめて1つの関係なんだよね」という成熟した理解になっていく。こんな感じなのかな、と思っています。
成熟した関係性
 “良い関係”もずっと続くことはないと分かって諦められるようになりますし、“悪い関係”も必死になって追い出すだけでなくそれを自分で抱えられるようになってくるでしょうし、もしくは、健全な形で相手にちょっと持ってもらうことも可能になるかと思います。個人的には“最初は世界そのものであった原初の関係性の中から個が生まれてくる、しかもその個は常に関係性の中にいる”という風に考えてます。常に関係性ありき。だから、人の性格なんてのは、その人生来のものもあるでしょうが、やっぱり親や先生や友達などとの関係性が源泉になるというイメージが強いです。また、ウィニコット先生に“ほどよい”という表現がありますが、この”ほどよい”母親は、子どもの依存性と自立性のバランスを取ることのできる母親を示します。ちょっとこれを考えると、”ほどよい”ってことは、少し“ズレ”があることをも意味しますね。このズレが関係性の中での2人の差異を育ててくれるんだと感じています。

 別の存在としての2人が最初からいるというわけではなく、原初の関係性という世界が最初にあり、ほどよい呼応の繰り返しによってその両端に2人が認識されてくる。個というのは関係性から“off”したものではなく“of”の状態と言っても良いかもしれません。つまり「個は関係性から派生するものの、決して分離はしない」ということ。この関係性を木村敏先生に倣って“あいだ”と称しても良いでしょう。“わたし”や“お母さん”は最初から“わたし”や“お母さん”なのではなく、“あいだ”によって次第に立ち現われてくるのかもしれませんよ。他にもいろんな考えはありますけど、自分はこの考えが一番しっくりきます。

 “ほどよい”というウィニコット先生の表現は非常に大事なもの。T細胞が胸腺で生まれて末梢に出ていく時も、自己抗原とほどよくくっつくのが条件でしたね。自己抗原を攻撃しまくるのも仲が良すぎるのもアポトーシスとなってしまいます。ほどよくない場合は“あいだ”が良い具合に統合されず、ひいてはわたしのこころも統合されません。“良い関係”にずっと浸っていたい、“悪い関係”は追い出すか避けるようにしたいと考えるんじゃないかなと思います。
統合されないと?
 ビオン先生の考えを持ち出すと、泣き声などの色んな赤ん坊の行動をお母さんがしっかりと抱えて(コンテインして)、そして試行錯誤をしながら、言葉を含めて適切な返しをしていくというのが健全な発達、赤ん坊自身の抱える能力の発達に欠かせません。この試行錯誤がコミュニケーションになっていく、と表現すると良いでしょうか。子どもが追い出したものをメッセージとして受け取るお母さん、そしてお母さんの返しをメッセージとして受け取って、また返す子ども。もし追い出したものをお母さんが受け取らない、受け取れないのであれば、子どもは依然としてバラバラになるような不安の世界から逃れられません。また、お母さんが返してみてもそれが子どもにとって見当違いであれば、子どもは絶えず追い出す行為をし、そこにコミュニケーションは成立しないままです。成長してもその子どもは言葉ではなく行動によって“不快なもの”を追い出してしまうでしょう、“行動の病”と言われるパーソナリティ障害のように。

”あいだ”コミュニケーション

 お互いの試行錯誤という“ほどよいズレ”が、子どもとお母さんという2人の統合された関係性を産む要素だと思います。こころは関係性の場、つまりは“あいだ”をはじまりとし、“わたし”という認識、そして“わたしと違う色んな人”という認識、更にはお互いの“かかえあい”能力の発展によって豊かな土壌になっていくと思われます。ほどよくかかえあうことの出来る関係性においては、土居健郎先生的に言うと“屈折した甘え”ではなく“健康な甘え”が見られることでしょう。

 「あれ、そういえばお父さんはどうなの?やっぱ影薄いの?髪も薄いし」と思うかもしれません(おい!)。お父さんは蚊帳の外という訳でなく、やはりお母さんが機能不全になった時はお母さんの代わりとして頑張ります。そして一番重要なのは、お母さんと子どもの試行錯誤を、外できっちりとカバーする役割。母親は子を守る存在ですが、父親は家族を守る存在だということですね。どちらかの親が欠けていることも最近は非常に多くなりましたが、必ず両親がいなければならないということはありません。母親的機能を持つ存在があれば、父親的機能を持つ存在があれば、本来のお母さんとお父さんの代わりになってくれることでしょう。それぞれを“母の名”を冠するもの、“父の名”を冠するもの、と言って良いかと思います。例えば保育園の保母さんとか、おじいちゃんとかおばあちゃんとか。昔は地域社会がその様な役割を担っていたのではないでしょうか。今はちょっと薄れちゃいましたね。

 さてさて、そんなこころですが、関係性で育まれるものなので、わたしという個人の中にあるものながら、他者との間、社会との間にもあるという、ちょっと不思議な現象になります。「俺のこころは俺のものだ!」と思いたいんですけど、関係性の中で出来てきたんですから、他の人にも開いていることになります。こころは自由にならないものなんですね。そんなこころの性質を眺めた上で、健康ってどういうことなのかを考えてみたいと思います。

 滝川一廣先生は「共同体的な広がりを持つこころは不自由なもので、健康っていうのはその不自由さに折り合いが付いている状態なんだよ」とおっしゃっていますが、これはまさにその通りだなぁと思っちゃいます。健康であれば悩まないし不安もない、なんてことは絶対にありません! みなさん悲しいことがあればがっくりと来ますし、不安に苛まれることもあるでしょう。イライラすることだって往々にしてあります。でも私たちは毎日の生活を精神科のお世話にならずに送っていける。「色々とあるけど、まぁ何とかやっていきましょう」「つらい日も多いけど、そこそこ生きていってるかな」という気持ちで日々を過ごしている、別言すると折り合いが付いていると言えましょう。

 悲しまなくても良くなる、悩まなくても良くなる、つまりはマイナスな感情がなくなれば良い、と言うのは、どだい無理な相談。ハッピーだけなんて、そんなこたぁできません。前述のように、こころは関係性の中で出来てきたもの。自分の中のみならず他の人にも開いています。“あいだ”性が強いとも言えますね。ということは、自分1人でどうこうできるものじゃないので、その部分で他者の影響を色濃く受けます。そこはとっても不自由な部分ですよね。その中で、悲しみを悲しみとして、不安を不安として、しっかりと自分で認めて抱えていく。抱えられない部分があれば、関係性として開いている他の人にちょっと持ってもらいましょう。誰かに愚痴を言ったり一緒に居酒屋に行って上司の悪口で話に花が咲いたり。わいわいと話すことで気が楽になるのは経験がありますよね。抱えられない部分をしっかりと言葉にして伝えるというのが、健全な甘えなのだと思います。特別な関係にある人となら言葉は不要で、ただそこにいるだけの柔らかな情緒で良いかもしれません。そういったことが何とかできているのであれば、いわゆる健康であることを示します。折り合いをつけられる、抱えられる、甘えられる、ということが健康のしるしかもしれんです。

 こころの成り立ちの自分なりの理解、そして健康とはどういうことか、というのをここまでお話しして来ました。では、最初にも投げかけた“どうやって精神科の患者になるのか”というところに迫ってみたいと思います。

 「起こった事柄や感情そのものがマイナスだから、健康じゃなくなって精神科のお世話になるんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。でも、ここまで述べてきた自分の考えでは、それらへの関わり方の不器用さ、すなわち“あいだ”のほどよさが失われることから来るんじゃないかしらということになります。

 そのほどよさを失うとは、元来その人の持つ脳機能の脆弱性もあるでしょうし、生じた事柄や感情などの不自由さを抱えられなくなること、そしてそれを周りに持ってもらうことが出来なくなることなどがあるかと思います。それらが相まって“あいだ”の恒常性が崩れるとも言えましょうし“あいだ”での不全感が生じるとも表現できましょう。

 ここで1つ例を出してみます。精神科らしく、精神病理学華やかなりし頃の内因性うつ病の代表格である“メランコリー親和型うつ病”にお出まし願いましょう。メランコリー親和型(Typus melancholicus)というのは、テレンバッハというドイツの先生が提唱した“几帳面”“秩序志向”“対他配慮”からなるうつ病の病前性格というか生き方というか。ドイツと日本でしか流行しませんでしたし、日本でのメランコリー親和型とドイツのそれとはちょっと異なります。日本では高度経済成長期の勤勉に頑張るサラリーマン、というか当時の平均的な日本人像を思い浮かべますね。テレンバッハの『メランコリー』を読むと好ましい性格と記載されてはいるものの、決して適応的な人々ではなかったことが分かります。几帳面すぎてウザがられる人とか、几帳面しか能のない人とか、「お前ぜってー日本の企業で働けんよ」というのばっかり。なので、これから言うメランコリー親和型は、日本に輸入された際に改変された“日本的”メランコリー親和型だと思って読んで下さい。

 内海健先生にお出ましいただくと、メランコリー親和型の人々は、以下の様な対象関係のループを持つとのこと。
メランコリー
 主体、この場合は将来の患者さんですが、この主体から対象への献身的な尽力がなされます。この対象は上司や家庭や国など。献身の見返りとして、反対給付をもらいます。例えば「素晴らしい部下だな」と上司から信頼されること、「いいお母さん」と子どもが言ってくれることがそうですね。でも彼らは、見返りを期待して尽力しているという意識がありません。

 メランコリー親和型の人たちは、尽力し意識しない反対給付を得ることで、不自由さを何とか自分で抱えることが出来ていた。そんな“あいだ”に生きてきたと言えます。規範にとらわれて距離をとれず、柔軟性に乏しいのが分かりますね。大きな仕事を自分の課題だとして全面的に引き受けて頑張る。それが達成されて無意識に反対給付を得て、更に大きな仕事を自らの課題として…。これが回っているうちは良いんです。

 じゃあ、こういう人たちの発症はどういう時か?それは、このループがどこかで切れてしまった時。昇進という喜ばしいことも、見方を変えれば部下として評価されるということがなくなってしまいますし、定年になれば尽力する会社がなくなります。子どもたちが独立した、いわゆる“空の巣”なんてのも、献身すべき対象がいなくなってしまうことを意味します。頂上のない山があってずっと登れる体力があれば良かったんでしょうが、残念ながらそうではなかった。“あいだ”の恒常性が崩され、わけも分からないうちに不自由さを抱えられなくなってしまったのです。これが“患者さん”の誕生です。

 今回は日本の高度経済成長期にフィットしたメランコリー親和型という概念を交えて、”患者”になることを考えてみました。「今はそんなメランコリー親和型のうつなんていない!」という先生方もいますが、外来やってると今もちらほら見ることがあります。ただ、当時の日本人は程度の差こそあれこのメランコリー親和型が多かったでしょうから、うつ病になりやすい病前性格なのか、それとも単にもともと多くいたからうつ病になる患者さんも結果的に多かったのか、そこはちょっと不明です。当時の疫学調査も調べ方が甘かったと良く言われますし。また、献身と反対給付のループは、高度経済成長期の終身雇用が確保されていたから際立っていたんだと思います。今は常に付きまとうリストラとか消費者からの苦情とか、仕事と言うのが非常に不安定ですよね。みんな不安を持ちながら、それでも過剰なまでの仕事量を目の前に頑張らざるを得ない。しかも携帯電話やメールで職場に監視されているようで、家にいても芯から休めない。認めてもらえず肯定してもらえず、追われるような日々。コテコテの制止が前面に出るタイプよりも追い立てられるような不安焦燥が高まっているうつを良く見ますが、そりゃあそんなうつにもなるよなぁ、と同情してしまいます。

 すっごく精神科っぽい話でしたね。いつもの記事とは全く雰囲気が違うと言うか何と言うか。真面目でございました。次回は症状の持つ意味なんてのを見てみます。
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