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2018
09.29

また都会に!?

 10月はてんかん学会学術集会が横浜で行なわれ、それに行ってきます。しかもその帰りの日は夜に名古屋で講演会があり、喋らなくてはいけません。結構タイトなスケジュール。てんかん学会学術集会は最終日に "てんかん学研修セミナー" というのがあり、去年は参加しました。今年もそのつもりだったのですが、講演会を引き受けてしまったがためにセミナーを受けていると遅刻してしまうことが判明。しまった…。ということで、今年はスキップ。来年からまた受けよう…。

 そういえば、講演をするのも久々。今年は3月だったかしら、その時以来のような気がします。ちょっと去年が多かっただけですね。本来はポツポツというレベル。自分は精神科医なのですが、講演依頼は漢方ばっかりで。専門医でもなんでもないんですけどね…。純粋な精神科の講演なんて激レアですよ。もちろん依頼をいただくのは光栄なことなので、毎回しっかりと予備スライドをたくさんつくって準備をしてお話をさせてもらっています、はい。講演も基本的に1分に2~3スライドくらいのペースなので、お話しする分のスライドも多い。1スライド1テーマにしているし文字も大きいし。

 前にもちょっと記事にした覚えはありますが、まさか自分が大勢の前で話すことになるとは、昔は想像だにしませんでした。大学受験の時は面接のない大学をあえて選んで、話をするのを極力回避していましたし。一度だけ面接ありの大学を受けたことがあるんですが、もうあがってあがって、ひどいもんでした。こうやって今は講演会でお話をすることも増えましたが、親からも「まさかお前が話をするなんて…」と驚かれます。社交不安症と言われてもおかしくないくらいにひどかったのですが、人って変わるもんだなぁ。

 何が良かったんでしょうね。結局は慣れたということと、講演を「もうイヤだわ…。しくしく」と思うのを通り越して「自分を売り込むチャンスやな」と思えるようになったのと、あとは「緊張してもいいから伝える内容だけはきちんと伝えよう」と考えるようになったこと、かな? でも今でも座ってピンマイクというのは苦手で、基本的には立ってマイクを持ってというスタイルにしています (長時間だとさすがに座りますが)。手をじっと机や膝に置いておくと自分の場合は身体もこころも緊張するのが分かって、手は動かすかマイクを持つようにするかになりました。理想的には、歩き回りながらお話できればいちばんリラックスできます。多動か…?

 しかし、教授の前でのプレゼンはダメだ…。この前は超久々にその機会があって大学の医局に行ったのですが、もうメタメタですよ。順番待ちの最中も落ち着かなくて座れないし、汗をかくわ手は冷えてくるわ、これって四逆散の証じゃないかと思っていました。根本的なところではまだまだ話すのが苦手なんだろうな、緊張しがちなのだろうなと実感したのであります。何十人~百人よりも、教授一人の方がインパクトが大きい。さすがでござった。

 そんなこんなで10月は学会に行くくらいで後は行事らしいものもないかしらんと思っていたら、10月14日に再び因縁の東京に行くこととなりました。場所は東大ではないのでひと安心…? パッと行って話し合いをしてお昼過ぎにはパッと帰ろうと思っています。東京は怖いところだ。あ、でもお土産は何かじっくりと選んでから帰ろうかな…?
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2018
09.25

キャンパス大移動

 9月23日は、東京大学で "オープンダイアローグと中動態の世界" というシンポジウムを聞きに行きました。13時~16時40分のあいだ。自分としてはかなりの意気込みを見せており、12時前には大学に到着して開場を待とうという気持ちでいたのです。なぜなら、定員450人のところ満員御礼!ということで、視力の悪い自分としては前の席を確保してしっかりと見ておこうと思ったのであります。

 8時29分のこだまに乗り、11時過ぎには東京駅に到着。そこのほんのり屋でおむすびを食べることに。というか、東京に行くと大体ここでお昼を食べているような。

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 鮭のおむすび! 美味しい。値段は高いけれども (270円…)。

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 で、腹ごなしも済んだことだし、いざ東大。案内の地図によると、正門をくぐって13号館の1323号室で行なわれる、とのこと。いやー、このままなら本当に一番乗りかも、ひょっとして。

 東大の正門。

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 安田講堂。

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 こんな感じのところもあるのか。ずっと続きそうな。

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 13号館をきょろきょろと探すと、見つけたのが




工学部13号館




 「工学部…?」と疑問に思うも、演者の國分功一郎先生は東工大で哲学を教えているから、別に工学部でもおかしくはないか、と了解。しかし、450人が入るような大きさの建物とは思えず。「別の13号館があるのかな…?」と思ってさらに彷徨い探してみるも、見つからず。「おっかしーなぁ」と、キャンパスに立てられている地図と持っている案内の地図を見比べてみると、あれ? 案内の地図に書かれているのが




駒場キャンパス、だと…?




 そして、ここは




本郷キャンパス…?




 その瞬間、一気に汗が吹き出してきて、「やばい…!」と。そうなのです、この大事な時に限ってキャンパスを間違えてしまったのです…。

 東大って言えばこのキャンパスしか知らないし、そもそも東大なんて縁もないし恐れ多いし、行ったことあるのも河合臨床哲学シンポジウムくらいだし (それは本郷キャンパスなのです)。あ、今年は行ければ行きたい。毎年12月上旬に河合臨床哲学シンポジウムがあるんですよねー。て、そんな余裕は今ないし。案内の地図に赤門が記載されていないのも変だなーと思ってたけど、「ははぁ、有名すぎるからあえて記載していないんだな。さすが東大」とこれも勝手な了解をしていたし! そもそも正門とか安田講堂とかのんきに写真撮ってる場合じゃないよ! ていうか工学部13号館ってやっぱりおかしいよ! 演者が東工大だからって工学部の建物で哲学と医学のシンポジウムするわけないじゃん! などいろいろなことが頭の中をぐるぐる。

 キャンパスにシンポジウムの案内が全然なくて「あれ?」と思っていたら、こんなことだったとは。そこから大急ぎで駒場キャンパスまでの道のりを調べ、電車に。ゲルマン民族なみの移動です。また乗り換えがあって面倒、これが。

本郷三丁目→(丸の内線)→赤坂見附→(銀座線)→渋谷→(井の頭線各駅停車)→駒場東大前

 という順で行けと私のガラケーが教えている。赤坂見附だなんて、吉田拓郎の "地下鉄に乗って" ではないかと一瞬考えましたが、口ずさむ余裕は一切なし。よし! ギリギリ13時には間に合うか!

 すべてがダッシュで進んでいきました。しかし、人間焦ってはよろしくなく、渋谷で井の頭線にまさに飛び乗った瞬間に気づいたのが



快速に乗ってしまった…



 無残に過ぎゆく駒場東大前…。「何だよー、東大は各駅停車かよー」とどうにもならないこの時間。そして降りたのは下北沢。人生初だよ、こんなところに降りたの。そこでまたなぜそんな選択をしたのか不明ですが、「よし、もうタクシーで行こう!」と下北沢の改札を降りる。

 想像していたのは、改札を降りたら客待ちのタクシーが停まっている姿。しかし、実際は細い道路をたくさんの歩行者が行き交う光景。下北沢ってこういうところなの? と思いながらタクシーを探して走る。すると、幸運なことに1台のタクシーが来るではありませんか! しかも空車!

 タクシーに乗った時間は12時58分 (たしか)。開始までには間に合わないかもだけど、及第点だなと思ってひと安心。しかし、道は細く歩行者がゆっくり歩いているので、タクシーもゆっくり。


何なんやこれは…


 ついていない時はトコトンついていないのだ…。東大初体験者のしがちなミスをすべて経験したような気がする。

 やっと多少広めの道に出て駒場キャンパスに。きちんと案内の看板も立っていた! しかし写真を撮る余裕は一切なく走り過ぎる。見つけた13号館も広くて安心。

 結局着いたのは13時をとっくに過ぎてしまったけれど、幸いなことにはまだ開始されておらず (細かい説明がなされていた様子)、着席してちょっとしてから国分先生のお話が始まったのでした。良かったー。一番乗りするつもりが、まさかのビリ (推定) になるとは思いもせで。

 約4時間、面白く話を聞きました。しかし疲れた。話を聞いて疲れたのではなく、それ以前の行動で疲れた。もうおむすび食べてた頃がなつかしい。安田講堂をパシャリと撮っていた余裕はどこに。

 で、ぞろぞろと帰っていく風景を思い出したかのように一枚カメラに。
 
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 もうお土産を探すような体力的余裕もなく、定番すぎる "東京ばな奈" と "銀座のいちごケーキ"。

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 銀座のいちごケーキって、前は模様がいちごの絵じゃなかったでしたっけ。変わりましたよね (たぶんかなり前)。

 あ、そうだ。シンポジウムの内容ですよね。斎藤環先生のお話は外在化 (これも中動態と接点がありますね) がメインでしたが、それ自体はブリーフセラピーでよく行なわれているなーと。高木先生の "未来語りのダイアローグ" も、黒沢先生のタイムマシン心理療法的だなぁと思いました。しかし、それらが様々な人たちのダイアローグの中で動くというのが効果的なのでしょう。しかもそこで即興的に何かが生まれてくる。台本のない、誰も結末を知らない劇のような。精神分析では、患者さんがこころの台本を持っているとして、そこを治療者とともに探っていきますが、オープンダイアローグはその台本がないのですね。どうなるか分からない、でもその中で患者さんも治療者もシステムの一部として働くのだと思いました。あらかじめ合意形成なんてできないのだ、と斉藤先生がおっしゃっていましたが、まさにそうなのでしょう。

 責任についても、いったん免責されることで、そこから新たな責任、本来的な責任が湧き上がってくる、というのが強調されていました。現代の私たちの持つ "責任" というのは、"堕落した責任" なのだ、と。本来は決してそうではないのです。そこに絡んでの "意志"。能動/受動は「お前がやったのか」「お前がやらされたのか」と尋問をします。意志は、ある人に行為を所属させる (責任をもたせる) ことができます。こころの中で無からの創造が起こっていると仮定し、その人に責任を取らせるのです。しかし、純粋なゼロからの自発性などこころの中にあるのだろうか? というのがポイント。責任という言葉を考え直し、応答すべきことに応答すること、応答しなければならないと思って中動態的なプロセスが湧くこと、これが大事なのだということでした。

 やはり神の存在というのは大きかったのではないでしょうか。古代ギリシア (アリストテレスなどよりも前) には意志は存在しなかったという国分先生のご発言もありましたが、やはり神が登場して神への従属・神との対立という中で生まれたと思われる意志は、能動/受動というシステムで動くものなのです。古来のゾーエー/ビオスでは、現代でいう意志は不要だったはずです。ゾーエーという中動態のエンジンとも言えるような概念がそれを支えていたのでしょう。古代ギリシアや神の誕生というのを考えると、確かにハイデガーをもうちょっと深く知るべきでしょうし、そうだとすると木田元あたりとうまく合わせられないかしらん、と考えました。日本の言葉でいうと、みずから/おのづから に私自身としては注目。この2つの言葉が同居しているのが中動態なのではないか、とも思うのです。みずから行なったことが、おのづからみずからに作用してくるというのが中動態なのだとも言えるのでしょう (たぶん)。

 オープンダイアローグを考えると、精神科医や臨床心理士が診察室で患者さんが来るのを待つという今の医療システムは、無くなりはしないまでも今より縮小していくのかも? 患者さんのところにチームが行く、ということ自体がとても治療的ですよね。当日の話にはなかったですが、患者さんが来るのではなく、私たちが行くという転換。これは大きいと思いました。そして、その中でみんながシステムの一部 (患者中心ではない、とあえて言いましょう) となって新たな、予想だにしない多様な意見が立ち上がってくる。これが "効く" のかもしれません。私個人としては、このシステムを "あいだ" や "あわい" と呼びたい衝動に駆られますが。

 今回のシンポジウム、参加者みんな「おー」と感動したかも。この「おー」というのも中動態ですね、そういえば。だとすると西田幾多郎の純粋経験だってまさにそうだ! 色々と広がって面白い。広がったついでに私は、最近のわざとらしい "おもてなし" って大嫌いです。"もてなす/もてなされる" と明確に区別されて、それは「もてなしてやっている/もてなされて当然」という、人間の醜いことこの上ない感情が見え隠れします。"おもてなし" と強調された時点で、"おもてなし" は失われてしまっていると言えるでしょう。おもてなしは行為の中に自然と立ち現れるべきものなのです。

 という、最後にまじめな考え (参加したので) を述べましたが、やっぱりキャンパスの間違いはとても焦るし疲れるというのが正直な感想です。

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2018
09.21

臨床のワンフレーズ(27):何ができるだろう

Category: ★精神科生活
 問題の解決には、自ら行動するということがとても重要になります。もちろん心身ともに休むべき時は休んでもらいますが、それが過ぎたら今度は動く時に移行します。

 うつ病の患者さんでなかなかおっくう感が抜けない時や、社交不安障害の患者さんで怖くてなかなか外に出られない時など。これまでも記事にしてきたように、症状と行動が強く結び付いている患者さんは、症状がある”から”行動できないという思考に陥りがち。でもそれは絶対ではなく「症状を症状のまま受け止めて、それでいて行動することができるんだ」「症状があっても、行動を選ぶ自由があるんだ」という実感をじわじわ得てもらうことが改善に重要です。”症状を見つめる”ということが出来るようになるってのが目標。そのためには、症状が "やってくる" ような気持ちが重要で、「うつになる」「不安になる」ではなく「うつがやってくる」「不安がやってくる」、と言い換えます。そうすると、症状の主体からちょっと離れられるのです。

 行動については、患者さんの希望を踏まえ、現実に即した目標を設定。症状がやってくることを認めながら目標を少しずつ行なっていくことで、これまた少しずつ自由を得られるようになります。

自分「○○さんは人の目が気になってなかなか外に出られない、そんな不安がやってくるんですね」
患者さん「はい。ここに来るのも主人の車で送ってきてもらってます」
自分「○○さんは、この状況をどう感じます?」
患者さん「なんか、悔しいです。もっと楽に外出できたらなって。情けないって言うか…」
自分「気になる自分が情けない感じ。分かっちゃいるけど気になる感じがやってくる」
患者さん「はい」
自分「確かに、今の状況ではそう思うのも無理はないかもしれません。それを踏まえた上でなんですが、○○さんはどうありたいですか?どうなってほしいとか」
患者さん「やっぱり一人で外に出てみたいですね」
自分「一人で外に出てみたい。そうですよね。じゃあ○○さん、そのために今の○○さんにできそうなことを教えてほしいんですけど、どうでしょう?」

 3段論法ではないですが


・今の状況がどうなのか
・どうありたいのか
・そのために”患者さん”が何をすべきなのか



 これを確認。他人にしてもらう、のではなく、自らがすることが重要になります。あんまり「あなたが」というのを強調しすぎると押しつけになってよろしくないのですが…。治療というのは、自分がすることと医者がすることの両方から成るもの。することとすることとのあいだに生まれてきます。ただ、最初から非現実的な目標であれば、治療者と話し合って達成可能なものに変更。

 症状を消そうとすると対決になってしまい疲弊すること、症状があっても行動はそれにコントロールされるものではないこと、それをお伝えした後で、行動をしてもらい”小さな自由”を積み重ねること、これがポイントになります。こういったことを診察の度に表現を変えてお話し。もちろん、そこには治療者と患者さんとの温かみとゆとりのある信頼関係が前提ではあり、治療者はそこにも工夫をしていきます。そういった自由は、症状を持つ私という主体をいったん解除し、症状との関係性を考えなおすことから生まれてくるでしょう。症状をちょっと浮かせておき、それを見つめることができれば、少し余裕が生まれてくるのです。

 とてもつらく苦しいことを、ありふれた苦しさにダウンサイジングする。これが大事なのだと思います。生きていく中で苦しみはツキモノであり、それをゼロにしてハッピーだけの人生なんてのはありません。症状との対決姿勢が強すぎると「これさえなければ幸せなのに…!」と思いがち。決してそうではなく、その先は平凡で苦楽のある人生です。そこを認識してもらわないと、また別の症状がやってきたり、症状の複雑化にもなったりするでしょう。

 ありふれた苦しさを認めつつ生活できるようになれば、それが良いのかなと。そのためには、苦しさと直接対決するのではなく、その苦しさがあっても選択できるのだ、行動できるのだという経験を積むことも方法の1つなのだ、そう思います。症状を浮かせる、症状を”現象”のようなものととらえる、そんな工夫が必要になりますね。
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2018
09.15

ドナー登録をしました

 骨髄バンクのドナー登録をしてきました。前からしようしようと思っていたのですが、つい忙しさにかまけて…。そして忘れて、また何かの時に思い出し…ということの繰り返しでした。

 こんなんじゃいかんので、先日は強靭なる行動力を発揮し、無事に終了。

 名古屋駅のJRゲートタワーの26階に献血ルームがあるので、そこに行ってきました。名古屋駅の散策なんて、超久しぶり。半年以上はショッピングなんてしてないです。通勤ではほぼ毎日使っているんですけどね。

 申込書を渡して、採血をして、それでオシマイ。あとはこのカードをもらいます。

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そこではドナー登録が久々なせいか、採血をする看護師さんが「どういう手順だっけ?」みたいな感じでメモ帳を取り出し、果てはボスナース的な看護師さんに意見を伺っていました。でもって採血もサイトでは2 mLと聞いていましたが、スピッツ2本分取られて「あれ?」という気分 (それでも合計7 mLくらいですけど)。何かで使うのか? そして慌てた看護師さん



駆血帯を外す前に針を抜こうとする事案が発生



 これはですね、研修医もやってしまいがちなのですが、場合によっては血がぴゅーって出ます。慌てると普段慣れていることでも順番忘れますよね、分かるわー。共感できるわー。「あ、駆血帯…」とお願いしたので今回は事なきを得ました。セーフ。

 ドナー登録者は現在50万人弱いるそうです。でも、55歳を過ぎたら卒業なので、ぼーっとしていたら減ってしまうんですね。登録したての自分も卒業まで10-20年の期間 (アラフォーですから)。ちなみに、白血病周辺の治療薬は劇的な進化を遂げているらしく、あと50年もしたら骨髄移植が不要になるかも? どうなのでしょう。それまではしっかりつないでいきたいものです。

 骨髄ドナーですが、忙しい人にはなかなかつらいシステム。マッチする患者さんがいて、さあ骨髄を提供しようという時、1週間弱 (3-4日の入院) は仕事や家事を休まねばならないというのがやっぱりネック。その前にも自己血貯血をする必要があり、その日も潰れます。一部企業には休んでいる間の補償があるようで、それは素晴らしいこと。自分の場合は、外来なんですよね。。。入院日が3ヶ月くらい前に分かるのなら何とか事前にブロックできますが、そうでない場合はすでに埋まってしまうので、入院している間は他の先生に外来患者さんの診察をお願いせねばなりません。でも人の生命には替えられないよね、うん。

 あとは自分が大病をしないことでしょうか。ぽつぽつと病気をした時期はありましたが、今はドナー登録の基準を満たしています (たぶん)。

 自分の行動でひとりの生命の道筋が変わるかもしれない、というのはとても大きなことのように感じます。「骨髄ドナーの俺カッケエ!」という自己満足でも良いと思うんです。ひとのためになるかもしれないことをした自分なのだから、褒めて当たり前でしょう。そして、仮に自分が死んでも、その骨髄がだれかの中で活き活きとしているだなんて、とても不思議な感覚。再発があって自分の骨髄が役割を果たせなくなったり、その患者さんが亡くなったりしても、だれかの中で確かに存在していたというのは、徒花と言われようとも素敵なことのように感じます。

 人は支えあって生きていく存在ですし、その支えの痕跡はだれかに残ります。そうなると、ヴァイツゼッカー先生の言うように、死というのは確かに個々の生命のおしまいに過ぎないのかもしれませんね。大きな生命の中には確実に息づき、それはまた新しい個の生命に継がれるのでしょう。

 ただ、自分はアレルギー性鼻炎で好酸球がめちゃくちゃ多いので、最終検査で「あんたダメだわ」と言われないか心配。そして、仮に移植できても患者さんはアレルギー性鼻炎に苦しむのではないだろうか。それも自分の痕跡ということでお許し願おうかしらん。
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2018
09.10

予習かつ復習

 9月23日に東京でシンポジウムがあり、それを聞きに行きます。その予習として、國分功一郎先生の『中動態の世界』を読み直しました。以前に読んでいましたが、ちょっと記憶にある内容が怪しくなってきたので、復習。

 中動態は、私たちの生きている能動態/受動態の動詞形態の以前にあったものです。本の中ではこのように述べられています。



能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある。



 この、主語が過程の内部にあるというところが重要なのです。私たちは、何かの動作をする。そしてその動作が主語である私たちに覆いかぶさってくるとも言えます。換言すれば、"みずから" 発した言葉や行った動作が "おのずから" 私たちに影響してくるのでしょう。非常に面白いですね。行為が影響してくることで、主体の "主体性 (私が) " をいったんほどいているとも言えるでしょうか。それは、人がその動作をしてしまったという "苦しみ" から解放してくれる可能性も有しています。

 そして、中動態の根底には「自然の勢い」がある、「過程を実現する力のイメージをそのうちに宿している」のです。この辺りは本を読んでもらうとなるほど納得なのですが、そこから、中動態は能動態を生み出したのではないかという推測が筆者によってなされます。動詞は非人称動詞としてあり、のちに中動態に。そして、その派生として能動態が生まれる、というのです。

 その中動態は消えてなくなり (慣用句としてその面影が残り)、能動/受動という、私たちの慣れ親しんだ分類に取って代わられます。動作の中に行為者がいるのかいないのか、という能動/中動の視点から、行為者が自分で行なったのかどうかという、行為と行為者とを強く結びつける能動/受動の視点に移っていきました。「出来事を描写する言語から、行為を行為者へと帰属させる言語への移行」と本文中で指摘されています。

 この『中動態の世界』では、スピノザのいう神を中心に展開していると言えるかもしれません。個人的には彼の表現する "神" はゾーエーに近いと思っておりまして (スピノザの神=自然そのもの)。神は超越的な絶対他者ではないんですよね。中動態も、超越的な唯一神、要するに今の西洋でいう "神" ではなく、スピノザ的、誤解を招くかもしれませんが、デカルト、いやソクラテス以前にあった思想との関連が深いと思います。そう、ゾーエーです。中動態は徐々に廃れ、能動態/受動態にその座を奪われました。それは、ビオスとゾーエーという概念から唯一の絶対存在である神という概念 (スピノザの神とは異なる) に移行したのとまったく別個の事象とは、私にはどうしても思われないのです。日本も昔はゾーエー的な考えが根付いていましたが、結局は仏教の存在で廃れたと言って良いでしょう。

 動作を行なう場合、ゾーエーが個々のビオスに入り込んでいるあの感じ、つまりは「自然の勢い」という観点。それは能動態を生み出す中動態の見方なのでしょう。そこから、個々と切り分けられた絶対的な他者としての神の誕生。切り分けるということで明白な他者意識 (主体-客体)が生まれ、そしてそれは対決・克服へとつながります。その観点は、現在の能動/受動となっているでしょう、たぶん (?)。

 中動態という態を考えると、現在の能動/受動でなかなか解決されない行為をすんなりと理解できるようになる可能性があります。そして、スピノザは中動態をしっかりとベースにすえて、能動/受動を考えていました。"する/される" という単純な区分ではありません。「スピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた」のです。スピノザ的には、受動と能動はすっぱりと分けられるものではありません。行為の中に能動性と受動性が混在していると言っていいでしょう。現在の私たちの受動と能動の考え方とは異なっていますが、中動態を動詞の源とする発想は極めて実践的と言えます (本文ではカツアゲが代表例になっています)。

 ちなみに、この中動態ですが、語弊はあるものの私はあえて「能動と受動の"あいだ"」と言いたいのです。この "あいだ" は木村敏先生的な意味合いでの "あいだ" であり、すべての始まりの "あいだ" なのです。AとBがまずあって、その結果の "あいだ" ではありません。はじめに "中動態" ありき。そこから動詞が広がっていく様は、行為することに新しい風を吹き入れてくれるでしょう。

 でもって、この本で大事なのは、中動態に関することもそうですが、引用すると



中動態を問うためには、我々が無意識に採用している枠組み、われわれ自身を規定している諸条件を問わねばならないのだ

それが見えなくなっているのは、強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである



 などに代表されるような視点。能動/受動の視点でいては能動/中動を理解できず、さらには能動/中動の視点の能動は、能動/受動の能動とは異なってきます。つまりは、ひとつのパースペクティブ (ものの見方、フレーム) に慣れきってしまうと、無条件でそこから眺めてしまい、結果的に齟齬が生まれるということなのです。患者さんのパースペクティブと医者のパースペクティブは異なりますし、患者さんごとでも、医者ごとでも異なります。いっぽうのパースペクティブのみであれば、他方に思いをはせることができません。いったん自分のパースペクティブをカッコに入れて、「相手はどう考えているのかしら?」「相手のいうこの言葉 (行なうこの動作) はいったいどんな意味があるのかしら?」と思うことが大事ですね。自分のものの見方から離れられないと、それは偏見・押しつけになってしまい、今に続く社会の息苦しさでもあります。
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2018
09.04

今更ながらおどろいた

 経口・経腸栄養剤に "エンシュア・リキッド®" と "エンシュア・H®" というものがあります。いくつか味のラインナップがあり

エンシュア・リキッド:バニラ味、コーヒー味、ストロベリー味
エンシュア・H:バニラ味、コーヒー味、バナナ味、黒糖味、メロン味、ストロベリー味

 となっているのです。黒糖味というのがなにか突出して違和感を醸し出していますし、メロン味が発売された時も「なぜメロン…?」と不思議に思ったものです。個人的にはココア味がほしい。

 製造元のアボットさんとしては、リキッドの方はあまり力を入れず、Hとエネーボ®でやっていきたいそう。確かにリキッドの方はカロリーも少なめだし、役割を終えつつあるのかも。でもいちばん飲みやすいですけれどね。

 このエンシュアに関して、先日新たな発見がありました。ただ、これは自分の浅学だったので恥ずかしいのではありますが…。

 なんと、この各種ある味ですが




香料だけ!




 だったのです。コーヒー味にはコーヒーなんて入っておらず、黒糖味には黒糖は使われていないのです。もちろん果汁も。外見はすべて同じなので、すなわち




香りだけで味に違いがあると騙されていたのだ!




 これはアレですね、かき氷のシロップと同じ戦法ですよ。ま、あちらは着色料と香料の二段で攻めてはいますが、原理は同じ。あ、エンシュアも缶で飲むなら色でなんとなく想像するので視覚も関与していますね。味以外の要素で、味に違いがあると勘違いしていたのです、私たちの脳は…。香料自体に味はないし。

 いやもうびっくりしちゃって、てっきりコーヒーエキスとか黒糖とかを使っているもんだとばかり思っていました。だからたぶん、両方の鼻がつまっている人が飲めば、味は一緒ですよね。鼻をつまんだら、つまんでいる最中はきっと同じ味ですよ。

 後輩に「こんなことがあったんや!」と香料の件を話してみたら




「え、知らなかったんですか…?」




 と、なんだか蔑まれたような眼で見られました。やっぱり常識だったのか…。

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