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2018
06.25

with です

Category: ★精神科生活
 どの疾患でもそうなのですが、患者さんを表現する時に

統合失調症の●●さん
甲状腺機能低下症の●●さん

 などという表現を、自分を含めて医療者はついしてしまいます。この "の" というのがクセモノでして、イコールという印象が非常に強いのであります。ということは、すなわち

●●さん=統合失調症
●●さん=甲状腺機能低下症

 になります。そして、患者さん自身もそのような言い方をしてしまいます。「私は統合失調症である」「私は糖尿病である」という表現ですね。でも、それって、疾患がその人を覆い尽くすようなところがあるでしょう。十分に気をつけないといけません。

 英語表現では

schizophrenic patients

 という言い方はせずに

patients with schizophrenia

 となります。このwithが患者さんとschizophreniaという名詞との間に入ることで、ちょっと疾患と距離が取れます。あくまでも、メインは患者さんその人です。統合失調症という疾患を持った患者さん、なのです。withという表現には外在化のテクニックがすでに練り込まれているのが見えますね。

 そこには疾患を見る目線と患者さんを見る目線の両方が含まれているでしょう。この両方がとっても大事。よく「病気じゃなくて人をみろ」と言われますが、個人的には「いやいや、病気もしっかり診ようや」と思ってしまいますね…。両方みるのが当たり前です。もうちょっと言うのであれば、病気をみる時に人をみるようにしていてはいけませんし、人をみる時に病気をみるようにしてもいけません。

病気:医療者がプロ。得られている知見に則って冷静に対処する
人:その人がプロ 。医療者は、その人がどう "生き抜いて" きたかに思いを巡らす

 ということなのです。"人 with 疾患" は、その両方に目配りが出来ている表現だと思います。

 "その人" に関しては、私たち医療者はド素人です。受診してくる患者さんその人については、まさに not-knowing なのです。何でも知っていることを装い、患者さんの言うことに「どうせ統合失調症の言っていること」とか「うつ病の人の考えだ」とか「摂食障害の思考だ」と単純に思い込んではいけません。これは精神分析の理論にも言えることで、「また否認して」「ボーダーの投影性同一視か」「見捨てられ不安が強いな」と、早合点してしまうことは罪作りでしょう。患者さんがどう思って生きてきたのか、その疾患を抱えて、場合によっては偏見にも眼刺されてきたでしょう、その中でどう苦しんで生きてきたのか、患者さんなりにここまで死なずにどう生きてこられたのか、というところにもっともっと光を当ててほしいと思います。重荷を背負ったその人の生き様には、絶望も多いでしょうが光る希望も見えるでしょう。

 そして、病気を見る目線をエビデンスと言い換えても大きな間違いはないでしょうけれども、それをEBMと言ってはいけません。病気と人をきちんと見ていく姿勢がEBMであります。EBMは何だか間違って理解されてしまっていますが、何もエビデンスに当てはめて治療することでは決してありません。この誤解が、精神病理学の先生に多いんですよね…。そしてその誤解のまま現代の精神医学を批判してしまう…。敵と考えるのは構いませんが、せめてその敵を知ってから批判してほしいものです (知ったら敵とは言えなくなるでしょうけれども)。

 EBMは、その患者さんのことを思い、その患者さんにとって最善の治療を頭いっぱいめぐらせていくことです。エビデンスを参考にして、その患者さんの生活・人生を考えて治療をしていくことです。文献的な知識だけで医療を行なうわけでは決してありません!

 話がEBMにまで飛んでしまいましたが、大事なのは with ということです。疾患の中に患者さんはいません。"疾患"を持った"患者さん"、という2つの目線が求められるでしょう。
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2018
06.19

モーニングの種類

 名古屋はモーニング文化があります。それはもちろんコメダ珈琲店にもありまして。

 コメダのモーニングは、朝11時までの飲み物オーダーでトースト半切りと ゆで卵 or 卵ペースト or あんこ が無料で付いてきます。これはモーニングを行なっている喫茶店の中では最弱の部類であります。豪華なところってすごいですし、モーニングと言っておきながらお昼過ぎまで行なっているなんてのも。もはやそれはモーニングの意味の再考を迫っていると言えましょう。

 とは言いながらも、家の近くの喫茶店と言えばコメダさんなのです。ということで、今回はコメダのモーニング画像を。でも最近は全国に進出しているので珍しくなくなりましたよねぇ。

 こんな感じで供されるのでございます。飲み物を2つ頼むとちょっと見栄えが良くなる (おい)。

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 手前があんこで、奥が卵ペースト。このあんこがまた名古屋って感じですねぇ。

 でもって塗られているのはマーガリンですが、店員さんに頼むと、何といちごジャムに変えてくれます!

 証拠画像。比較のためにまた飲み物を2つ頼む (お腹いっぱい)。

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 ほらほら!

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 紅白っぽくてめでたい。

 コメダの飲み物、特にコーヒーは品質を考えるとお値段が高い。2018年6月から価格改定で少し値上がりしましたし。その分、モーニングのトーストがほんのちょっと厚くなったみたいですが…。でもトーストって厚ければ良いってもんでもないしねぇ。

 ここのコーヒーは単品だと高くて、モーニングのセットだと安いという絶妙 (?) の価格設定になっています。チケットを使えばまずまずの値段だと思います。長居してもまったく問題ないというのが利点ですし、それも含めての料金と考えられましょう。

 ちなみに、帰る途中、朝早かったためまだ閉まっていたソフトバンクさんで、ペッパー君ががっくりとしょぼくれていました。居残り反省会でも行なっていたのかしらん。

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2018
06.12

変わらない、を意識しすぎると?

 治療者は安定していなければならない、とはよく言われます。患者さんはゆらゆらと不安定なので、安定して "変わらない" というのをおすそ分けするような、それが大事。このことはどのテキストにも書かれてあることですが、「安定していなくては!」と思いすぎるのも、診察室をぎこちなくさせるものかもしれません。

 自分もレジデントの時はギアスに命じられていたかのように「治療者が不安定ではいけない、安定していなくては…」と思っていました。今でもちょっとその傾向がありますが、ガチガチに変わらない、なんていうのはどだい無理な話だなぁとも感じております。

 ひとつのエピソードをご紹介。自分がインフルエンザになって外来を急遽休まなくてはならなかったことがあります。当然その日の予約患者さんは他の先生が診てくれたのですが、後日復活して外来で「前回はごめんなさいね」と謝ったところ

患者さん「いえ、先生も僕と同じ人間なんだなって思いました」

 と返されまして。どういうこと?と思い詳しく聞いたところ

患者さん「先生っていっつも変わらなくて、完璧みたいに見えてました」
自分「完璧ですか」
患者さん「はい。でもインフルエンザで休まれて、あぁ人間なんだなって」
自分「それでちょっとホッとしたところもありました?」
患者さん「はい、実は (笑)。でも僕も完璧でいてほしいと思っていたかもなぁと何か後で」
自分「私に完璧でいてほしいと思っていたことに気づいた」
患者さん「そうですね」
自分「それが私のインフルエンザで見事に崩れましたけど、それで怖くなるのではなく、同じ人間だと感じてホッとした」
患者さん「そうなんです」
自分「うーん、なるほど (笑)」

 という流れ。これには、若い頃 (?) の自分は本当に「なるほどな~」と思ったのであります。これで患者さんがぐぐっと改善したというのならさらにすごいのですが、そういうことはなかったのでした。でも何らかの転回にはなったのではないか?と自分では感じています。そしてさらに「おやおや?」と思ったのが、患者さんの中にはインフルエンザで休んだことを「もうどうしようかと思った」と話すかたもいたこと。これは精神分析的に色々言えそうですが、まだ患者さんの中で "準備" が出来ていなかったとも表現できます。治療者の不在に対してどう患者さんが反応するかというのは、治療の進展にも関わってくるでしょう。もちろん、個々の患者さんと治療者とのあいだで起こっているという認識も必要で、すべてを患者さんの内的世界として考えてはなりません。

 患者さんは苦しんでいる。つらさや不安を自分でどうにも処理できない。無力というのはイイスギかもしれませんが、自分ではどうにもこうにもなりません。そのため、処理してくれる治療者に投げ入れ、治療者はそれをかかえます。そして、患者さんがかかえられそうなものに砕いて返します。最初のうちは、治療者は絶対・完璧であることを求められます。治療者が移ろいやすく不安定であれば、患者さんの不安をかかえられません。治療者もある程度は完璧であろうとしますし、その時期はそのような姿勢が大切でしょう。言ってしまえばその庇護の中で、患者さんは "ゆとり" を思い出し、一歩を踏み出してみようと思えるようになります。その過程で、治療者が実は絶対ではないと感じ取ることが圧倒的に重要です。それは、患者さんがかかえられそうな形だと思って返してみたところ実はそうではなかったという失敗によります。この失敗ばかりだと患者さんはとてつもない恐怖に苛まれることでしょう。成功とちょっとした失敗の配分。そのような成功と失敗を繰り返した "ほどよさ" の中で、患者さんは治療者との世界から広がりを見せていきます。

 治療者がいきなり不在になる。そうなると、患者さんの反応は治療のあいだによってそれぞれ変わってくるのというのは理解できることだなと思います。

 小倉清先生は以下のようにお話しし、絶対であってほしいという患者さんの願望が重く感じる時の対処法などもご提示しています。


人は誰でも不安定なんですよね。安定している人っていうのは死んだ人なんですね。(中略) 患者さんは、治療者の不安定なところを突いてくることがあると思うのね。ほとんど意識的にかな、反射的にかしら、治療者の持っている弱点というのか、柔らかい点というのか、そこを突いてくるものなんです。なぜ、そういうことをするのか。それはいろいろあるかもしれませんけれども、一つにはやっぱり患者さんは治療者に絶対的であるものを求めるんだと思うんです。治療者である限りは不安定であっては困る、しっかりしてくれ、どの場合でも動じないで堂々としていて欲しい、という願望、本来は自分自身がそうありたいというものが治療者のほうに投げかけられているのかもしれませんけれどもね。それは年中起こることだと思うんですね。つまり患者のほうから、治療者がオムニポテントであることを要求してくることもあるわけです。ぞういう患者さんからの挑戦に対して、治療者はだいたい耐えなくてはダメなんだけれども、なかなか耐え難く思うときも、それはあるわけですよ。そういうときは同僚なり、上の先生なりにお話をするというのがいいんじゃないですかね。お友達でもいいと思いますし、家族であってもいいのかもしれません。 (治療者としてのあり方をめぐって. チーム医療. 1997)


 対処法は「こんなのでいいの?」と思うかもしれませんが、不安を誰かに投げ入れてかかえてもらう、そしてこちらがかかえられる状態に変形して返してもらう、ということを表しているでしょう。人と人とのあいだは、そのような "投げ入れる-かかえる" というつながりでもあるのだと思います。

 完璧であろうとするのは、不安定で崩れてしまいそうな段階に対しては必要かもしれません。でも治療を続けていく中でいつまでも完璧であっては、患者さんはその閉じた世界から離れることはできなくなります。治療的になるには "ほどよさ" が必要であり、その中の一体化していない "ズレ" こそが、患者さんが進んでいくための大切な要素であると思います。
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2018
06.06

他県に足を踏み入れた

 5月のある日、豊橋市に向かう用事がありました。名古屋→豊橋は、なんと新幹線のこだまで行けてしまうのです (時間帯によっては "ひかり" でも)。豊橋に新幹線が停まるなんてね、びっくり。さらに言えば、名古屋と豊橋のあいだに "三河安城" という駅でもこだまは停まります。こだまさん停まり過ぎじゃないの? と思わなくもない。でも便利なんでしょうね、少し遠くまで行く方々にとって。

 そういう発見もあり、ちょっと今回はせっかくだから新幹線を使ってみようかな、と欲を出しました。名古屋駅から乗って、途中の三河安城駅で6分位停車 (長いなー)。そして着いた! と思ったら

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 こ、この "うなぎパイ" のラッシュは…?

 そうなんです。



浜松まで行ってしまった



 豊橋の次がもう静岡県の浜松でしてね…。豊橋に停車したことにまったく気づかなかず、そのまま乗って、車内アナウンスで「間もなく浜松」という声を聞いて「おや?」と。。。

 何故乗り過ごしたのか、その理由がですね



文献読んでた



 真面目! いやー、真面目だなー。こんな真面目で良いのかなー (アピール)。

 それはそうと、これは困ったなぁと思いまして。まさか静岡まで行ってしまうとは (豊橋から静岡まで10分くらいなのです)。でも慌てたって下りの新幹線が早く来ることもないし、そもそも15分後くらいにこだまさんが来るようなので、ちょっとキオスクの中を見てみることにしました。

お、"こっこ" を発見。さすが静岡だなぁ。

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 とは言いながら、"こっこ" も "うなぎパイ" も、名古屋や豊橋で買えちゃいますけどね…。"うなぎパイ" はうなぎの味がしませんが、パイとしておいしいのです (うなぎパウダーは入ってます)。"こっこ" は、ちょっと中のクリームが溶けにくいかな…。

 そして、YAMAHAさんのコーナーもあり。さすが浜松。

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 いろいろ見ていたら時間がやってきたので、豊橋に今度こそ行きましょう!

 よし、確認。

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 乗る前に、浜松駅ホームからの風景。うわー、曇ってるなぁ。

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 無事に新幹線に乗り直し、その中で…

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 "大砂丘" というチーズブッセを買っていたのでした。いただきます。

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 うん、おいしい。ブッセっておいしいですよねー。個人的には、もりもと (morimoto) の"雪鶴" というブッセのバタークリーム味が好きです。北海道では有名 (なはず) で、子どもの頃からむしゃむしゃ食べていたような記憶。道産子にとって、ブッセと言えば "雪鶴" なのです。最近も確か成城石井で見かけたから、全国で買えるはずですよ、たぶん。ちなみに、もりもと (morimoto) といえばハスカップと心中するんじゃないかってくらいにハスカップ大好きな会社で、種々のスイーツを作り出していることでも知られています。"雪鶴" はぜひね、見かけたら食べてみてください。やや低体温の人肌程度の温度にしてから食べるのがオススメ。

 そして、豊橋に到着! あっという間だった。

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 ブラックサンダーがお出迎え。いろんな種類があるなぁ (今は6月になり気温上昇のため、キオスクではブラックサンダーの取り扱いを終えているそうです)。

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 ということで、今回は意図せずして隣県にある浜松市までやって来てしまいました。でもブッセ美味しかったし、時間にも間に合ったし、特に問題なかったのでした。

 あ、そうそう。静岡お土産と言えば上述の "うなぎパイ" や "こっこ" が有名ですが、わたくしとしては、こちらをお勧めいたします (画像が暗い)。

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 "あげ潮" ちゃんです。これ、くるみとかレーズンとかオレンジピールとかを混ぜたクッキーで、コーンフレークも入っているので食感がとても良いのです。ザクザクっとしておいしい。

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 1袋が180 gで700円弱のためちょっとお値段は張りますが。でも静岡のお菓子で何か一つと言われたら、自分だったらこれを推薦。この "あげ潮" は見た目の茶色から誤解されていますが、決して "揚げ潮" ではありません。揚げ菓子ではないので、お間違えの無いよう。"あげ潮" は、満ち潮という意味だそうです。潮が満ちるように運気も…という願いが生地に練りこまれております。こう聞くと縁起よさそうですね。これは今年の年末ジャンボに期待 (?)。

 ただ、オレンジピールとレーズンが歯にくっつくんですよ、コレ。それが難点や。
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2018
06.01

過剰な医療の背景とその対策

 今回は、今問題となっている過剰な検査や治療がなぜ生まれるのか、そしてどうすれば解決に向かうのかという論文を軽く紹介します。

Hoffman JR, Kanzaria HK. Intolerance of error and culture of blame drive medical excess. BMJ. 2014 Oct 14;349:g5702. PMID: 25315302

 2014年のBMJに載っている短いもので、これは一度読んでみると良いのではないでしょうか。ここではちょっとまとめ的な訳を。

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 人間は過ちを犯すものです。意思決定のプロセスで、間違いは避けられません。間違いによる害を防ぐ最善の策は、間違いやそのニアミスを探して同定し、それらをとらえ軽減するシステムをつくることです。しかしながら、医療の分野において間違いは恥と考えられ、人々から責任を追求されます。そのため、医師は間違いの否定や隠蔽を行なってしまいます。これは間違いを防ぐには逆効果なのですが、はるか昔から医学に根ざしてきたものです。現代医学は完全なる科学に基づいているという自負があり、このことが、いかなる間違い、そしてどんな有害な結果をも受け入れがたい失敗だととらえてしまいます。

 この考えは一般の人々にも浸透してしまっています。完璧な結果を求め、病気になることや死ぬことは避けられないはずなのに受け入れられなくなっています。医師はどんな間違いにも個人的な責任を負うように指導されており、間違ってしまうことは理想には程遠い結果だと言われてきました。そのため、結果が悪ければプロセスに問題があると考えられてしまいます。患者さんが思わしくない結果になった時、医師は罪悪感と恥を抱きます。完全であろうとし、確実性を極端に求めようとします。しかし、いずれも達成可能なものではありません。社会は「問題は全てテクノロジーが解決できる」などの幻想を抱き、究極的には「死も自由意志による」とさえ思い込んでしまいます。

 間違いを起こした際の不利益を恐れるあまり、健全な医療から逸脱することになります。これを "守りの医学 (defensive medicine)" と言いますが、それが過剰な医療の最たる原因です。訴訟や見逃しなどを恐れ、過剰な検査や治療などがなされてしまうのです。現在の法律では怠慢が何よりも罰せられるため、訴訟リスクを下げるために過剰な医療が生まれてしまいます。訴訟リスクが低くとも医療過誤への恐怖は軽くならないかもしれませんが、だからと言って現在のシステムを変更する必要がないということではありません。今は責任追及が著しくなってしまっており、守りの医学から来る過剰な医療による財政負担も大きいのです。

 染み付いてしまった医師の行動を変えるのはたやすいことではありません。しかし、過剰な医療を制限せねばならないのと同時に、公での晒し上げを挫き、診断が間違っていたり考えられる治療を控えたりすることによる訴訟リスクをも軽減せねばなりません。とは言え、システムそれ自体の力ではうまくいかず、別の方策が必要です。現在行なわれてきているものがイギリスの "do not do" リストやアメリカの "Choosing Wisely" キャンペーンなどであり、オーストラリアでも同様のことがなされています。これらは不確実なことへの不耐性を扱っているわけではありませんが、完璧を求める文化から生じた過剰な医療を減らす第一歩となります。さらに、JAMAの "Less is More" セクションやBMJの "Too Much Medicine" キャンペーンなど、医学ジャーナルも努力しており、最近始まったpreventing overdiagnosis conferenceなどもあります。もう一つのアプローチは、意思決定のプロセスに患者さんに参加してもらうことです。SDM (shared decision making) の主な目的は患者さんの価値観や好みを反映させることですが、同時にリスクとベネフィットを考える不確実性を患者さんに理解してもらうことにもつながります。

 しかし、私たちはこれ以上のことをする必要があり、医療やより広い分野においても変えていかねばなりません。失敗や間違いが避けられないということにオープンになってもらい、そして専門家や多くの人々に "許容しうる失敗" を考えてもらう必要があります。医師は長きに渡って多くの人々から敬意を払われてきましたが、私たちは全能性への欲求を捨て去らねばなりません。しかし、社会が与えてくれる道徳的な権威を引き受け、それを以下のために用いねばならないでしょう。人体を無傷にしておくことは月に行くよりもはるかに難しいということ、適切な医学的情報から外れたものや医療者の理解できない情報は利益ではなく害になるであろうこと、疾患の早期発見は常に患者さん指向のより良い結果につながるとは限らないこと、そして検査や治療は多ければ多いほど良いとは限らないということです。

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 以上になります。私たちは "分からない" を極度に恐れます。そして、ついつい検査を余分にしてしまったり、不必要な治療をしてしまったり。それが患者さんにとって不利益をもたらし、医療経済も圧迫します。医者だけにその非を着せるのはお門違いでして、患者さん側にも ”分からない” を受け止めてもらう必要があります。医療は不確実なのだ、ということです。そこに耐える力が必要。メディアは医療の敵なのかと思うほどに過激な報道を繰り返しますし、それが国民の不信感を煽ります。「何かあったらただじゃおかない」となるわけです。そうならないためにもメディアには心を入れ替えてもらいたいですし、国にも頑張ってもらいたいところです。医者側も不確実性を表明するのは大事ですが、しっぱなしはご法度です。"分からない" 渦中にいる患者さんの不安をも抱擁することが求められましょう。そして、日本は皆保険制度が (かろうじて) あるため検査や治療の自己負担が少なくなっていますね。そのために患者さん側も「検査して」「せっかくだから薬をちょうだい」となってしまいます。医者側もそういう傾向にあるでしょう。それによって国の医療費が大きく膨れ上がることにもなるため、やはりそこへの理解も必要でございます。

 不確実性に耐えられない好例は"風邪に抗菌薬" なんてものでして、「もし抗菌薬を出さなくて細菌感染を見逃して悪化したらどうするんだ!」という追及や、医者側も「念のため…」という思い、そんなことで処方されてしまいます。でも予防については、たった1人の深刻な細菌合併症を防ぐには4000人以上に投与しなければなりません (BMJ. 2007 Nov 10;335(7627):982. PMID: 17947744)。必要のある時以外に抗菌薬は投与すべきではなく、かえって腸内細菌叢を乱してしまい、患者さんへの不利益になります。この 風邪に抗菌薬" はようやく国が重い腰を上げてくれた感がありますね。

 早期発見は患者さん指向のより良い結果にならないことがある、と上記にありました。「早期発見なら別に良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、子どもの甲状腺がんを例に挙げると、そのほとんどはおとなしいものです。日本全国の健康な若年者にスクリーニングと称して検査をすると、甲状腺がんって意外と見つかるのですよ。「たくさんの子どもに検査をして早めに見つけることの何が悪いの? おとなしいものなら経過をしっかり追えば良いじゃない?」と考えるかもしれませんが、やはり "がん" があるというのは本人とご家族にとって非常に苦しく、不安を増幅させます。将来についても何かと考えてしまいますし、親御さんならいろいろと思うところがあるでしょう。医者側も「何かあったら…」と考えますし、また不安に耐えかねたご家族からも「手術してください」と言われることがあります。そして、甲状腺がんもほとんどが無害ですが、遠隔転移をきたすようなものもごく一部にあるため放置できず、さまざまな不安なども相まって結局は無害なものも含めて手術、過剰な治療となってしまいます。まったく患者さん指向ではなく (倫理的に問題あり)、そこは分かってもらわねばなりません (大阪大学の研究チームの報告を見てみましょう)。

 精神科における身体拘束も、不確実性への恐れからなされる部分があります。拘束をやめるとインシデントが増える (アクシデントは増えないようですが) ため、拘束を減らす、究極的にはゼロを目指すのであれば、そのインシデントを許容するシステムが不可欠です。それは病院内にも必要ですし、患者さんのご家族にも必要です。拘束しなかった患者さんが転倒する、ということひとつをとっても、ご家族の中には病院に対し猛抗議する、看護師さんに対してこころない言葉を浴びせる、というかたもいます。しかし、拘束をしないということは、こういう事が起こりえると理解してもらわねばなりません。もちろん拘束することによる身体的なリスクも無視できないのですが。

 "分からない" に耐えること、そして医療には過剰があり、ともすると利益にならないということ。医者も、皆さんも、メディアも、弁護士さんも、裁判官も、国も、みんながその重要さに気付いてほしいところでございます。
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