2017
08.29

机をコンコン

Category: ★精神科生活
 精神科で患者さんを診ていると「ドキドキしてきて、それで息が詰まる様な感じがして、死んじゃうんじゃないかとふと怖くなってしまいます」という人がたくさんいます。精神症状であれば、それは”パニック発作” と呼ばれます(てんかんはきちんと除外しましょう)。ただ、この ”ドキドキ” はクセモノでして「本当に不整脈だったらどうするの?」ということになりかねません。特に心房細動はきちんと拾い上げておきたいところ。

 大抵は患者さんも内科に行って「心電図はとったんですけど異常なしと言われました」と話します。でも、発作性の不整脈はそれが出ている時に心電図をとらないと姿を現さず、何も症状がない時に心電図をとっても有用性に乏しいのが歯がゆいですね。

 もちろん、不整脈を持っている人がパニック障害を持っていることもありますし、逆もまた然り。これはてんかんにも言えるでしょう。てんかん発作とPNES(心因性非てんかん発作)の両方を持っている患者さんは少なくないと聞きます。しかも、不安があると心血管疾患のリスクが高まるとも言われます(Am J Cardiol. 2016 Aug 15;118(4):511-9. PMID: 27324160)。このメタアナリシスでは心房細動のリスクは有意に高くはなかったとしていますが、信頼区間の幅も大きく、何とも言えないところ。

 このように、不安は心血管疾患のリスクになるため、「パニック障害だから不整脈や狭心症ではない」とは決して割り切れない。でも、割り切れないことばかりを強調してしまうのもいけないでしょう。それは ”考えないこと” につながってしまいます。その部分をできるだけ分けようとする、それでもちょっと「??」と思うのであれば、その時に併存というのもあるかも…と考えるに至るのがセオリーでしょうか。分けられるところまでは分けようとする努力が大切。イージーに考えてしまってはいけません。

 そんなこんなで、ドキドキがして大変ということで受診する患者さんに対し、自分は不整脈を見つけるために ”机コンコン” をします。

自分「○○さんのドキドキがどんな感じか教えてもらいたいんですけど、ドキドキって色々ありましてね」

 と前置きして、机をコンコンします。最初は

コン  コン  コン  コン  コン…

 これは60-70/minくらいの速さで規則正しく叩いています。患者さんが「これです」と言ったら、それは動悸 ”感” と言うべきものでしょう。次は

コンコンコンコンコンコン

 100-120/minくらいの速さで規則正しく叩いたもの。これだと洞頻脈かな? と思います。150/minを上回る速さであれば、洞性ではないだろうなと察しが付きます。次は

コン  コン      コン  コン…

 ブロックで一拍抜けるものを示しています。次は

コン  コンコン    コン  コン…

 期外収縮。もちろん3連発とかもありますが、実際にやるのは2連発くらいで後は口頭で「今は2回続きましたけど、もっと多く続くものもあるんですよ」とお話ししています。次は

コン  ココン コン    コン  コン

 バラバラに机をコンコンしていますが、これが心房細動。「こんな風にバラバラなのもあるんですよ」と一言。

 これくらいの例を出して、あとは患者さんに「実際に今度ドキドキしたら、自分の手首に指を当てて脈を見てみてくださいね」とお伝え。脈の触れ方も教えておきます。こうすると、ドキドキ出現時の状況が分かります。

 これは、ドキドキの原因が不整脈かどうかを知るためにもなりますが、実際に脈を見てドキドキを判断するということを通して、患者さん自身が症状にとらわれないようにするためでもあります。症状の外に立ってドキドキを観察する眼を持つ、ということ。ちょっとした科学者を目指してもらいます。そして、頸動脈ではなく手首の脈(橈骨動脈)にしているのは、手首は自分の眼で見ることが出来るからなんです。まさに”観察”出来ますね。頸動脈は手で押さえてもそこを見ることが出来ないので。あとは、視点を心臓という臓器から手首にスライドさせる意味もあります。心臓にアタマが行ってしまうと、良い考えには結びつきませんよね。

 これを狙って、自分は机コンコンを日々行なっている、ということでございました。机コンコンの診察の最後は「次の診察で、ドキドキがどういうのだったかを私に教えて下さいね」とお願いします。ここにも隠れたポイントがあって、医者から「教えて下さいね」と頼まれるのは患者さんにとって少し意外さを産みます。医者が教えるのではなく、患者さんが教える。ここに患者さんが主体的に症状と関わっていくための種まきがなされているのでありました。効果のほどは知りませんが(おい)。あとは、患者さんの方から医者に物事を言いやすい雰囲気にするという効果も期待されます。

 ちなみに、上室性頻拍であればバルサルバ手技を教えることがありますが、”息こらえ” ってどう伝えるかが難しいと聞きます。そんな時はですね、患者さんにまだふくらましていない風船をイメージしてもらって

自分「口を閉じながら、イメージした風船を持って口に近づけて、ふくらませるように頑張ってみてください」

 と自分でやりながらお話しします。そうするとより伝わりやすいかな? どこかの本に書いてあった気がしたんですが、忘れてしまいました…。このバルサルバ手技は成功率の低さで有名なものの、この手技を半坐位で15秒行なった後に仰臥位にして45度の下肢挙上をすると、成功率が17→43%にアップするしたという報告があります(Lancet. 2015 Oct 31;386(10005):1747-53. PMID: 26314489)。こういう研究、良いですねぇ(BMJ的だけどLancetに載ったんですね)。
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2017
08.19

その意欲はどこから湧くんですか?

 今後の身の振り方、を考えることがたまにありました。今はだいぶ固まっておりまして、そうそうブレることはなかろうと。

 医者として生活していく上で、大まかな道としては、”臨床・研究・その両方” の3分類があるかと思います。自分は「研究とはどんなものかしら」と思って大学院に行ってみましたが


こりゃアカンわ…


 ということで、撤退。研究はとても大事で、自分の頑張っていることが広まってそこから患者さんの治療に結びつくのは、医者冥利に尽きるとも言えましょう。自分の臨床だけだと関与できる患者さんは限られていますが、研究→文献という形であれば、その数は膨れ上がります。その大事さは分かっているつもりですが、残念ながら自分は研究への適応性がないなという実感があります。

 だから研究をどんどんして論文を書いている先生ってすごいなーと思っちゃいまして。留学している知り合いやこれからしようという知り合いもいます。もちろん高い地位を目指すぞという上昇志向が研究のエンジンになっている人もいるんでしょうけど、それにしたってすごいですよね。本当にそのやる気が羨ましい。自分は大学院にいて良かったのは ”色んな学割が有効” てなもんでしょうか。あとは大学が契約している雑誌の論文の全文を閲覧できたところか。恐ろしいくらいに意欲がなくなってしまって、特に2015年の後半から2017年の前半にかけては引きこもりがちになるほどで、暗黒時代みたいな感じがしました。こころも重いし身体も重い。常に一定以上の疲労感と閉塞感が取り憑いているような。今もまだだいぶ引きずっていてますけど、振り返ると当時のあのやる気の欠如は恐ろしいものがありましたよ。

 でも大学院に行ってみて、自分には研究の落第者というのが分かったので、それはそれで良かったと思います。だから、今後は病院の片隅でひっそり生きていこうと、それはそれは強く決意しているのです。何か世間様に出来ることがあるとすれば、ケースレポートでしょうか。しかしそれももうちょっと意欲が回復してこないと無理だなぁ。今は完全に ”気” がない。たぶん今世では無理で、来世になったら大丈夫かも(また人間に生まれ変われたら)。精神科病院でのこじんまりとした生活を今後も続けて大事にしていこうという感じです。それ以上に手を広げる余力は自分にありませんでした。

 以上、身の振り方の道筋でした。
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2017
08.11

ほどよい依存

Category: ★精神科生活
 随分前に寛解してお薬も飲んでおらず、でも定期的に通院する患者さんがいます。といっても3ヶ月に1度とかなんですけど。たぶん、こういう患者さんはどこの病院でもチラホラいるんじゃないかな? と思います。

 3ヶ月に1度やって来て、ちょっとお話をして、帰っていく。その多くは結構な高齢患者さん。社会とのつながりが薄く、子どもも独立して配偶者には先立たれて、というケースが典型的。こういう患者さんの通院に対しては、否定的な意見があるかもしれません。「治っているんなら通院の必要が無いだろう」「病院に依存してるんじゃないか」「患者さんをそうやって抱え込んでるんじゃないか」など。

 でも、依存がそんなに悪いのか? とも思うのです。世の中は何でも自立しろと言いますが、それは依存しないこととイコールではないでしょう。しんどいなぁ、さびしいなぁ、という時にちょっと依存できる目的語がある、そして依存できる主語がある、それが大事なのだとも考えております。そんな依存を許さない”自立”は”孤立”と言っても良いのではないでしょうか。どんなにつらくても自分の力だけで何とかする、のではなく、つらい時は頼ったって良いんだよ、という”おたがいさま””おかげさま”こそが人の世なのだと思うのです。私たちは”あわい”から生まれて”あわい”に生きる存在です。その”あわい”を断ち切ってしまえば、手を離された風船のように遠く消えていってしまう、そんな気がします。

 だから、3ヶ月に1度やって来るその患者さんも、病院に来てちょっと担当医と話をするということで、ほどよいつながりを保っているのではないでしょうか。担当医も深い介入はしません。スッとなでるような浅い関わりが侵襲性を最小限にして、ほどよさを生んでいるのでしょう。もちろん、毎週来て腰が痛い湿布を出してくれ点滴をしてくれ、とか、3日に1度のペースで予約外で来院する、というのであれば枠というのをしっかり考えて治療に当たる必要性があるでしょう。でも3ヶ月(2ヶ月でも良いんですけど)に1度、定期的にやって来てお話をちょろっとする、というのは決して悪いことでもないんじゃないかなぁと感じているのです。

 ちなみに、病院としてはそういう患者さんでほとんど利益は発生しません。さっさと終診にしてそのぶん新しい患者さんを診た方がよっぽど儲かるでしょう。でもそれを病院が第一にしてしまったら、病院は病院でなくなってしまうかもしれません。なかなかつながりの見出だせない社会だからこそ、病院がちょっとそんな役割を担っている。そう考えるといくばくかの悲しさもありますが…。昔はお寺なんかがその受け皿だったかもしれませんね。コンビニよりもお寺の数が多いという話も聞きますし。お寺が復権してくれれば、病院に来る患者さんも減るかな? と想像。最近は症状というよりも ”悩み” と表現したほうが良いようなかたが受診されることも多くなったので…。
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