2017
07.25

久しぶりに出かけてみた

 調子が良くないので引きこもっていましたが、この前のお休みにちょっと名古屋駅までお出かけ。平日の午後3時くらいだったのでそれほど人が多くなかったのが幸い。でも疲れますねー。

 大名古屋ビルヂングに行って、遅いお昼ごはんを ”酉しみず” で食べることにしました。

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 名古屋コーチンの親子丼です。徹底して名古屋コーチンでして

鶏肉:名古屋コーチンのお肉
お米:名古屋コーチンの出汁で炊いた
卵:名古屋コーチンの卵

 となっています。

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 名古屋に出店ということで、八丁味噌を使った味噌だれがかかっております。

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 どれ、食べてみましょうか。

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 うーむ、これは


お味噌が全部持っていった…


 期待する親子丼は、お出汁とほんのりな甘さの融合体なのですが、これはそういった要素が誤差みたいになっており、お味噌の強いベクトルで味が決まってしまったという感じ。微妙な味わいがお味噌(と唐辛子)でふっ飛ばされてしまいました。いくら名古屋と言っても、お味噌は親子丼に合わないなぁ。

 ちなみに名古屋コーチンではない親子丼(これもお味噌がかかってます)も食べてみましたが、アレルギー性鼻炎と慢性副鼻腔炎のある自分では、その違いが分かりませんでした…。ただ、これらの親子丼は味噌だれをかけるかどうか選べるそうなので、別添にしてもらった方が良いかもです。

 食後はJRゲートタワーを視察。名古屋に住んでいながらまだ足を踏み入れていなかったのでした。そこの本屋、三省堂書店に行ってみました。高島屋に入っていたのが移転? 拡張? したようです。

 そこで本を買って、疲れたのでひと休み。

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 冷たいレモネード。美味しかった。

 買った本というのがですね、こちらなのです。

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『ぐでたまひんやりBOOK』

 保冷バッグが特典として付いてきます。この本(?)の発売は6月末だったのですが、近くのイオンに入っている本屋さんにはなく、こちらに探し求めに来た、というのが今回のお出かけの本懐であったのです、実は。無事に入手。

 こんな感じ。保冷バッグと小さな保冷ポーチ。

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 マチもしっかり、結構な容量です。

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 サンリオキャラクター大賞では昨年の4位からひとつ順位を落としてしまいましたが、個人的には1位のぐでたま先生。順位なんて全然意に介していないんでしょうけれども、これからも応援いたしますよ。
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2017
07.18

聞き方をどうしようかな?

Category: ★精神科生活
 長谷川式やMMSEはよく知られた検査ですが、個人的にはあんまりこういうのはしたくないなぁと思っています。患者さんの中には自身ではなくご家族の意志で病院に連れてこられる方々もいらっしゃり、しかも明らかに年下の医者からこの検査をされるというのは、あまり気持ちの良いものではないでしょう。

 だから、自分はまず通院してもらうことから始めて、その中で朝の連続テレビ小説を観ているか、ワイドショーで多く取り上げられる話題はどういうものか、その中で最近気になる話題は何か、他にはご家族の構成やその人たちのこと、最後に行った旅行なんていうのから探り(こういう表現も良くないかもしれませんが)を入れていきます。日付を問う時も、「じゃあ2週間後にまたお会いしましょうか。あれ、今日って何日でしたっけ」とこっちが忘れたフリをして、患者さんに聞くようにしています。でもこれは批判があるかもしれません。

 ご家族から詳細なお話を伺う時は、患者さんに席を外してもらうことが多いです。なぜなら、ご家族は患者さんの「ここが出来ない」「ここが変」というのを私たちに伝えようとするのですが、それを言われる患者さんは自尊心を傷つけられる思いでいっぱいでしょう。患者さんが恥をかかされることがないよう、できるだけ周辺を考えていく必要があるのだと思っています。ご家族から伺った後は、患者さんに入ってもらってもう一度お話を聞いてそこで終了。ご家族の話で終わって「じゃあ次回」となった場合、患者さんは「家族と先生とでどんな話をしたのか…」と疑念が湧くでしょう。でも初診でも診察時間が限られている時もあるのでなかなかね…。

 このように出来るだけ検査をせずにやっていきたいのではありますが、中には長谷川式やMMSEをしなくてはいけない時もあります。その時に前置きでなされるセリフに



・簡単なテストをさせてください
・小学生にやるようなテストで申し訳ありませんが



 などがありますが、これは言わないほうが良いと考えています。確かに中身は日付とか100-7とか3桁の数字を逆に言うとか、まさに”簡単”なのです。でも、だからこそそんな表現をしないほうが良いのです、たぶん。

 なぜなら、認知機能が低下している場合、この”簡単”なテストも出来ないことがあるからなのです。もしそうだったら

「私は簡単なテストも分からないのか…」
「小学生に分かるものも分からないのか…」

 と患者さんはがっかりするかもしれません。そうなると、自尊心を傷つけ、患者さんは恥をかいたと感じ、関係性が悪化したり受診が途切れたり、中には帰宅後にご家族に向かって「なんであんなことをするようなところに連れてきたんだ!」と怒る可能性だってあります(それが妄想に発展することも)。ショックを受けて不安が強くなってしまってもいけないでしょう。

 よって、自分はその言い方ではなく


試すようなことをしてすみませんが


 と前置きするようにしています。これでもそんなに変わらんじゃないか、と感じるかもしれませんが、「簡単な…」「小学生でも分かるような…」という枕詞を付けないことで、それをできるだけ意識させないように心がけています。ちなみに、わざとらしくなくてもっと素敵な表現があればなぁと考えている最中(緩募)。

 臨床試験ではMMSEを定期的に行なって薬剤の効果を見るというのがあります。もちろんスケールで目で見えるようにするのは大事だとは分かっていますが、酷なことをしているなぁとも思わざるを得ません(必要なのは重々承知しています)。基本的には、普段の生活の様子がこちらに想像できるような感じになるまで慎重に問うていくようにしていくと良いのではないかな? と思っています。そうすることで、患者さん一人ひとりの出来ること・難しいことが明らかになってくるでしょう。生活は千差万別なので、マーカーも千差万別。

 ちなみに長谷川式やMMSEは総得点だけではなく、下位項目を評価しましょう。同じ総合点でも3物品遅延再生がゼロ点なら、ちょっとこっちの方がさすがに危ういぞ…となります。100-7は同じ間違いでも保続が見られると「おや…」と思いますし、野菜の名前なんてのもグルーピングして挙げられずにつながりなく列挙するほうが「むむむ…」です。レビーは3物品遅延再生が結構得意ないっぽう、視空間機能の低下から五角形を組み合わせたり立方体を描いたりという模写が苦手になりますし、時計描画テストでは失敗は多くないのですが文字盤が”詰まる”感じになりやすいなと思っています。レビーを疑ったらイラスト系で攻めるのがポイントかな? ちょっとした重み付けは大事ですね。
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2017
07.14

病気と人

 「病気じゃなくて人を診ろ」とはよく言われる言葉です。この言葉は無条件に肯定されることが多く、患者さんにも受けが良い(それだけ医療への不満があるのでしょうね…)ことは知られています。自分はひねくれているので、そんな言葉を聞くと「また安っぽいセリフを…」と感じないわけでもありませんが、それは内緒です。あ、「病気とは何なのか」という話は横に置いておきましょう。

 ただ、やはり病気というのを相手にするのが医療職であるというのを忘れてはなりますまい。「病気じゃなくて人を診なさい」は強調されすぎているキライがあるのではと感じていまして、個人的には


病気も診る、人も診る


 というスタンスがもっとも大切だと考えています。当たり前なんですけどね。もちろん「人を診なさい」の”人”は”病をかかえた人”の意味です。どの科でもそうですが、私たちは診察室や病室で人と接し、その人が人生をよりよく生きて欲しいと思っています。そして、その”よく生きる”も人によって、また状況によって異なることは言うまでもありません。人生に思いを馳せる時、人はみな哲学者になるとも言えましょう。

 昔々は病気を診る方に重心が寄っていたので、冒頭のような言葉が生まれたのかなと思います。ただ、人を診るばかりに針が動きすぎて、病気の方をないがしろにしてしまってもいけません。その”病気を診る”というのも必ずしも治癒せしめるわけではなく、病気には慢性的に経過するものもあるため、その人の生き方に悪い方への影響を最小限にすることをも含みます。

 精神病理学を例に出しますが、そこでは統合失調症をちょっと神格化していた傾向があり、この疾患こそ人間の自己のあり方を教えてくれるのだと考えている人もいます。だから、patients with schizophrenia というような言い方を好まない学者さんもいるのです。この表現は統合失調症という疾患が人間の外にあるような印象を与えますが、そこがお好きでないようです。「それではないんだ。統合失調症を持った患者さんではなく、統合失調症者、統合失調者なのだ」と考えているようで、人間の存在と統合失調症というのをどこか分かちがたく、ある種のロマン的なとらえ方をしています。患者さんはどう思うのかしら。それで「そうかぁ、納得」と思う人もいるでしょうし、「そんな冗談じゃない」と思う人もいるでしょう。自分は、それが正しいのかどうかは分かりません。

 でも研修医やビギナーには、やっぱり疾患は with として考えておこうよ、と言いたいところがあります。疾患を抱えながら、抱えた人としてどう生きていくのか。疾患は患者さんにいろんな影響を与え、それは悪いものばかりではないかもしれません。しかしながら、人と疾患とを混然として扱うのは、当たっている間違っているを別にして、若手の思考としてはまだ早いような気もします。特に慢性疾患の場合、患者さんの心情にかなり配慮する必要があり、疾患と人との境界線をなくすような発言は少なくとも人生の後輩が初期に口にするべきではないようにも思います。長年経過した患者さんからは「この病気は私の一部です」という達観した言葉がありますが、それを全ての患者さんの目標にすべきではないですし、最初からそこを押しつけてもいけません。疾患はあくまで疾患であり、withという意識でいた方が侵襲的ではないのだと、患者さんとのお話もそういう気持ちでしていきます。

患者さん「なかなかこの病気は厄介ですね。薬で何とか軽くしてもらってるけど」
自分「そうですねぇ、本当にこれは…。たまに暴れ馬みたいになりますものね」
患者さん「そうそう。本当に暴れ馬。でも最近はうまく手懐けるようにはなってきたかな、少しね」
自分「あら、そうでしたか。ご主人様は私だぞ! という感じでしょうか」
患者さん「そうね。長年ですからね。一生の付き合いというのは分かっているので」
自分「うまくお付き合いしていこう、と」
患者さん「そうそう」
自分「病気とは離婚できないですもんね」
患者さん「そうね。腐れ縁ってやつかしら」

 withという意識は、外在化のテクニックにつながります。疾患が外からやって来る、自分とは異なものである、と意識することで、疾患に飲み込まれないようにしてもらうコツになります。例えば患者さんが「不安になる」と表現しても、こちらは「そうでしたか。不安がやって来るんですね」と言い換えてお返事をします。「不安になる」だと、自分の中から湧き上がってくるからどうしようもなくなる感覚につながりますが、「やって来る」だと、やって来る相手に対してさあどうしようか、という考え方にもなりますし、患者さんと医者の共同戦線のような意識付けにもなります。

 そういうことを考えていくと、「病気じゃなくて人を診る」というところに傾倒してしまうことでwithの意識が薄れてしまうのではないかと思うのです。そして、過剰な”人を診る”ことの副作用として”他者であることの薄らぎ”があるとも感じています。柳田邦男の”死の人称性”ではありませんが、「人を診るぞ!」という意気込みは他者性を希薄化させ、2人称的な、「わたし-あなた」の関係に陥る危険性があります。患者さんからすれば「そんなに親身になってくれるなんてありがたい」と思うかもしれませんし、医療者の一部にはそれを励行している人もいるでしょう。しかしながら、私たちが患者さんと2人称的に接するのは、プロフェッショナルとしての判断に影を色濃く映します。どこかで冷静な、醒めた目を持っていることが必要なのです。診察室というのは、患者さんのそれまでの人生と医療者のそれまでの人生との”あわい”の場であり、そこから対話は生まれます。そういうのを常に考えておかないと、患者さんの人生に巻き込まれるか、もしくは医療者の人生に患者さんを巻き込んでしまうことすらあるでしょう。もちろん、人生と人生が出会う場所なので少なからずお互いが巻き込み巻き込まれするものですが、どこかで線を引いておくぞというアタマを持っていないと際限がなくなります。巻き込まれるにしても、”巻き込まれていると分かって巻き込まれる”か”巻き込まれていると知らずに巻き込まれる”のでは、全く違います。関わること、それは患者さんに悪影響を及ぼすという副作用にもなるのです。2人称としての接触は無批判で受容されるべきではありません。例えば、家族は2人称であるがゆえに「家族だからこそ許せない」ことだってあるでしょう。家族の中の出来事はキレイゴトでは済みませんし、それに医療者はよく遭遇しているはずです(介護の問題など)。人を分かろうとしすぎないこと、この自制が大事なのだと思います。いくら親しくても、その人には語りたくないものがありますし、それをこじ開けてもいけません。ジンメルの言う”秘密”として対処すべきであり、そこが他者の意識付けにもつながるのでしょう。もちろん分かるところまでは分かろうとする努力は重要ですが、人の心に土足で踏み込むことにならないようにすべきです。

 よって、病気を診るというのを意識することで、私たちは医療者としてのプロフェッショナリズムを保て、他者として接することが可能になります。私たちには”他者”の強みがあると言えましょう。病気と人、この両者への目配りが完全なる他者としての3人称でもなく、近すぎる2人称でもなく、”2.5人称”としての接触を可能にするでしょう。”あわい”を常に思い浮かべて、私たちが見て聞いて感じているのは、私たちと患者さんとの相互作用の結果なのだと受け取ってみるべきで、そこに医療者という職業性の他者をも崩さないでおく。ちょっと相反しているようなスタンスを入れておくのが大事。

 ちなみに、”他者”と言えどもゾーエー的なつながりというのは感覚としてあります。「自分の見ている世界と他の人の見ている世界なんて、結局は異なるんだぞ」という考えは、行き過ぎると”断絶”となります。確かに他者は分からないのではありますが、それぞれの自己というのは”あわい”から立ち現れるものであり、その”あわい”では私たちはつながっている(ひょっとしたら原初なる一?)のだと自分は思います。そのゾーエーがあるからこそ2.5人称という絶妙なバランスが出来るのかもしれませんし、西田幾多郎の視点からの解釈も出来そうです。「そんなお花畑思考の根拠は?」と聞かれてもそんなのないんですが、ひとりひとりの世界が違って分かり得ないなんて、ちょっとさびしい気がします。ただそれだけ。

というか、何事も”ほどよさ good enough” で説明できてしまいそうな気がしますね。難しいことを聞いても「つまりは、ほどよさか」と感じるようになってしまった。色々と本を読んで考えてもみたんですが、その結果がこれというのも悲しい気がしないでもない。
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2017
07.07

ちょっとはマシなんです、たぶん

 ゾピクロン(アモバン®)はベンゾジアゼピン受容体作動薬の1つで、z-drugとも呼ばれています。この特徴は兎にも角にも

苦い

 というやつでして、代謝産物が苦味を持っているらしく、口をゆすいでも取れません。ゾルピデム(マイスリー®)でもたまに「変な味がする」という患者さんもいますが、ゾピクロンはその比ではない。

 そして、その光学異性体としてエスゾピクロン(ルネスタ®)があります。これはゾピクロンよりも睡眠効果がやや長めであり、メーカーさん曰く「苦味が軽くなっています」とのこと。

 ただし、苦味が軽くなっているかというのは、実はガチンコの直接比較をしたわけではありません(そういう論文は少なくとも英語では存在しないはず)。

→訂正:ありました…。探し方が甘すぎた(Clinics (Sao Paulo). 2016 Jan;71(1):5-9. PMID: 26872077)。そこでは、苦味ではなく味覚障害という表現でしたが、エスゾピクロンの方が若干、ホントに若干少ないという結果になっています。エスゾピクロン 3mgで50.78%、ゾピクロン7.5 mgで60%でした。

 自分はあるところで「苦味が軽くなっているのが特徴です」と言ってしまっており、そこは軽率だったと反省しています。これはあくまで経験的なレベルにとどまっていて、この経験的という言葉を入れ忘れていたのが敗因。いつの日か機会があればその言葉をプラスしたいなと考えています。

 しかしいっぽうで、処方する身としては「確かに苦味は減っている」と思います。自分は新しく薬剤を処方する時は飲み心地を必ずと言って良いほど聞くのですが、エスゾピクロンは全員ではないものの80%くらいが「苦味は軽いですね」と答えます。自分も眠れない時に睡眠薬を飲むので、ちょっとエスゾピクロンを飲んでみたんですが、確かに苦味そのものは30% off といった感覚でした。そういうのもあって、「苦味が軽くなっているのが特徴です」と文献的なサポートなしに(軽はずみに)発言してしまったのでありました。これは失態です…。

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☆☆まとめ☆☆
ゾピクロンに対するエスゾピクロンの苦味減少は…

・比較試験は行なわれていない(→訂正:行なわれており、若干軽くなっているかも)
・あくまでも経験的なもの
・個人的に少し減っている手応えはある

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 ちなみに、この苦味は減っても減ってなくてもあんまり気持ちの良いものではないのですが、患者さんの中には「慣れてくると、この苦いのが”薬”って感じで良いんですよ」と言う人もいます。確かにそう言われたらそのような気がしないでもない、かな?
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2017
07.02

精神神経学会に行ってきました

 学会は行く気がなく、のっぴきならない事情がない限りは極力避けて人生を過ごしてきたのではありますが、今回は本当に残念ながらそののっぴきならない事情に至ってしまい、本当に本当に意に反して行かざるを得なくなってしまったのであり、これは誠に遺憾としか言いようがなく、慚愧に堪えないとはまさにこのことなのであります。しかも最近は身体の調子が良くないし、泣きっ面にスズメバチです。

 2017年6月22-24日に渡って精神神経学会が名古屋の国際会議場で行なわれました。こちらがその場所。

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 エスカレーターを降りると、受付っぽい感じの空間が見えます。

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 そして、こちらはイベントホールのポスターセッション会場。ちらりと。人がそんなに多くないですね。

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 ちょっと施設内をお散歩していたら、シャチホコさん発見。

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 おやまぁ、外には大きな像が。何でしょうね、ホントに大きいですよ。

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 自分は行かねばならない時間帯だけ行くという方針を打ち出し、24日のその時間だけ行ってすぐに帰るという、滞在時間が学会に参加した人の中で一番短いのではないかと思うくらいの感じで、ピューッと逃げました。帰りはコメダ珈琲店で癒されたのです。

 幸いにも地元が名古屋なので交通などは手軽で帰るのも簡単ではありますが、地元が名古屋だからこそ不幸にも学会に顔を出さねばならなくなったというのも事実であります。何と言って良いのやら。

 もう当分学会には出ないでおこうと固く決心。専門医なんて面倒くさいから取る気がなく、学会に行ってポイントを貯めないと…という強迫観念からも自由なのです(学会に出てポイントを貯めないと専門医の資格が失われるのです)。取るように! というプレッシャーが色々、特に上の方からかかっておりますが、取らずに済むところまではそのままで行きたいという、生来の面倒くさがりがここに結実しております。去年は一度も学会に出てないし、2年前はこれもまたのっぴきならない事情でうつ病学会にチラリと行っただけだし。行くんだったら楽しもうよと思うのが健全かもしれませんが、全体的に意欲が低下しているのもあって、外に出るのすら面倒くさい。仕事は仕方ないから行ってますけど、働かなくて良いんならいつだって引きこもる準備はできてるんです、こっちは。今年も年末ジャンボ買うんだ。

 自分の興味にバシッとハマるコアな学会があれば、ちょろりと行ってみたいんですけどね。でも出席する先生がたの人数が少ないとそれはそれで緊張するし。日本東洋心身医学研究会っていうのに昔一度行ったことがあるんですけど、あんまりパッとしなかったので、それ以来は出ていないのであります。これだけインターネットが盛んになっているので、学会の役割というのも変わってきているのかもしれませんね。学会は人と人とのつながりをつくるところなんだよと教えてくれる先生もいるんですが、自分はその人とのつながりが嫌いで…。もはやどうしようもない。でもなぁ、専門医取得が免れない状況になったら、必然的に学会参加も定期的にせねばならないか…。そうなったら覚悟を決めるか。
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