2013
07.29

やるならうまく

Category: ★研修医生活
 研修医の頃、とっても偉い感染症の先生のWeb講演会がありました。

 研修医とICTの先生が一室に集まって、それを聴いていたのであります。

 だいたい講演会ってのはどこかの製薬会社の後ろ盾でやっていまして、演者はちょろっとその製薬会社の出しているお薬をお勧めするような形。バイアスがかかっているから、誰も本気で聴きはしないんですよね。ご飯が出るから行こうかなー的な。

 その時はフィニ○ックス®というカルバペネム系の抗菌薬を売っている塩○義製薬さん提供のものだったと記憶しています。研修医向けということで、お題は確か市中肺炎治療に用いる抗菌薬みたいな感じ。

 グラム染色の話もして、さて治療薬選択の話になりました。すると講演している先生は




「治療ですけど、ま、フィニバッ○スで良いと思います」




 おぉっ!?



 聞いていた一同、失笑。

 ICTの先生も「こりゃいかんな…」とポツリ。

 えげつないなぁ○野義製薬さんは、と思わせるに十分でございました。てか、話の持って行き方が雑過ぎませんかね。自分も講演する身分なので気持ちは分からなくはないですが、もうちょっと上手くやるでしょ、ふつう(エビデンスをある程度出すとか)。

 そんなこんなで、その先生の書いた本を見る度にちょっと記載が信用できなくなったのでございます。

 ちなみに、なぜ市中肺炎治療にドリペネム(フ○ニバックス®)を選ぶと失笑の的になるかと言いますと、まずこの薬剤は緑膿菌のカバーがあると言う点が挙げられます。一般的な市中肺炎の治療でこの薬剤や他のカルバペネム系を選んだら、打ち首と思って良いレベル、というか研修医やめてもう一回医学生からやり直せや、とスゴまれても仕方ありません。仮に院内肺炎であっても「ま、カルバペネムでしょ」とかいう思考は投げ飛ばされるくらいひどいもの。あくまでも原因を見定めて抗菌薬は選択するもの。他には、状況から言ってレジオネラが疑われるような場合に使ったってそれもギロチンです(細胞内寄生菌に効きませんからね)。更に、ドリペネムに限って言えば、VAP(人工呼吸器関連肺炎)の臨床試験で何とイミペネム・シラスタチン(チエナム®)に負けてしまい、試験が中止になりました。これを踏まえ、FDAは肺炎に適応がないことを改めて強調しています。そんなこんなで、そんな薬剤を第一選択でドンッと使うのはいかがなものか、ということで皆さん笑ってしまったのであります。

 講演会って言うのは話半分に聞くものですね。そんな好例でした。
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2013
07.26

覚書その2~”患者”になること

Category: ★精神科生活
 覚書のその2である今回は、人のこころの成り立ちを精神分析を援用してお話しし、そこから”患者”になるとはどういうことなのかしら?というのを考えてみたいと思います。

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 人はどうやって“精神科の患者”になるんでしょう? 心臓が悪くなったら循環器内科、肝臓が悪くなったら消化器内科に行きますよね。「精神科って言うくらいだから精神だよ。平たく言うとこころってやつだ」とお答えになるかもしれませんが、じゃあそのこころって何よ??

 こころは、人間の歴史において色んな人が考えて色んなことが言われてきました。で、結局のところみんなが満足するような答えというのが出ていないというのが実情っちゃ実情。そんなに深く考えず、それぞれが「こうじゃないかなー」と思えていりゃあそれで良いのかもしれません。ものの考え方っていうのはみんな違いますし、精神科なんてそんなのばっかりですし、大同小異みたいなもんですかね。こんなことを口走ってしまうと「この小異のところが大事なんだよ!てか小と思ってないよ!」というお叱りが各方面から飛んできそうですが、あくまでもこの記事は若手用ということでお許し下さい…。

 さて、この新しいシリーズでは、主に精神科レジデントが患者さんの困っている背景にずかずか立ち入らずに、優しくなれるためにというのを意識してます。専門家が精緻な探求をするという高級なものではありません。ですから、自分の持っている“こころって何だろう”という考えも、それを考慮したものになっています。突っ込んだ説明をし過ぎるとこんがらがるので、あくまでも精神科レジデント用の知識。当たってるかどうかなんて気にしない。上述のように、そもそも正解があるかどうかも怪しいもんです(開き直ったよ!)。

 さて、こころについてです。こころの原基というのは、その人の中で出来てきます。その人が生まれていなければ、その人のこころは出来てくるはずもないでしょう。ここまでは「そりゃそうだよな」と思えます。その後、こころはどう成長していくのでしょう?それについては、自分はベタでしょうが「人と人との関係性の中から成長してくる」という考えを持っています。

 こころのモトはその人の中で出来ますが、それからは養育者(多くはお母さん)との関わりがあって、家族との関わりがあって、学校の先生や友達とも関わりが出来てきます。人との関わりをなくして単なる栄養補給だけ行っても身体は成長するでしょう、たぶんね。しかし、他者との出会いがないということは“わたしであること”を意識しないことにもなります。わたしのこころが存在し成長するためには、わたしがわたしであるという当然の認識が大事になってきます。他人というちょっと変わった鏡を通して“誰とも違うわたし”という存在に気付くと言え、“わたしではない誰か”も意識できますね。“わたし”1人の世界なら“わたし”を知らなくても良いことになり、誰かを知ることで“わたし”という存在にも気付くことになりましょう。おー、なんだか禅問答のようだ。

 ゲノムの話を少しすると、養育体験や大きなライフイベントというのはエピジェネティックな変化(遺伝子の塩基配列の変化を伴わない後天的で可逆的な変化)をもたらすことが知られています。これから見ても、他者との関わりというのは重要なんだなーと分かります。精神科、特に精神分析は幼少期の出来事を聞いて色々と今の状況に風が吹けば桶屋的な解釈(失礼!)を作りますが、そういったものもあながち外れてはいないんじゃないかというのが、このエピジェネティックな変化でも示唆されたのかしらと思います。生物学的精神医学が意外なところで精神分析を助けてくれた様な印象。

 精神科っぽく、最初の他者との出会い、つまりはお母さんですが、その関係性について見てみましょう。“わたし”、ひいてはこころは、ひょっとしたら最初のうちは「お母さんという1つの存在と、わたしという1つの存在、この2つがいる」という認識は出来ていないのではないかと思っています。わたしとお母さんの境界が曖昧で、わたしともお母さんとも判断のつかないような、わたし的母的なこころの存在なのかも? これをちょっと格好つけて“原初の関係性”と言っておきましょう。その渾然一体となった状態の中で、お母さんから色んな良い刺激(満足する世界)や悪い刺激(不安な世界)がある。

 お腹が空いた時を例にとると、お母さんがおっぱいをあげるのは赤ん坊にとって満足することですね。実際には「お母さんからもらう」という認識はなく、赤ん坊というわたしは“満たされた”という世界そのもの。お母さんからおっぱいをもらっても、“満たされた”という事実のみが子どもにとってすべて、イコール世界ですね。お母さんと定義される人、おっぱいという空腹を満たしてくれるもの、自分はお腹が空くとお母さんがおっぱいをくれてそれにより生きられるということ、これらはまだ原初にある赤ん坊には理解出来ません(とされます、いちおう)。逆にお腹が空いて泣いてる時にお母さんが泣き声にイラッとして手を上げてしまうのは甚だ不幸なことですし、お母さんがぐったりしてお世話できなくなってしまうのも大変。赤ん坊からしたら不快の世界そのものでしょう。最初の頃のこの世界は、それはそれは恐ろしく不安なものだと思います。人間は生物学的には未熟な状態で生まれてきますから、そんな赤ん坊が“危険に晒される”というのは自分がバラバラになるんじゃないかというような不安そのもの(解体不安)なんだと思います。こういった良い刺激や悪い刺激は、前述のように赤ん坊のわたしは「ははぁ、この刺激の出所はお母さんだな」と分かることはないでしょう。満足する万能的な“良い世界”、バラバラになりそうな“悪い世界”、これら原初の関係性において色んな反応をする。しかも、満足と不安は一緒にはやって来ず別々に来るでしょうから、最初は “良い”“悪い”というのが、同じ関係性から発祥したものとは分からないかもしれません。
原初の関係性
 時に応じて“良い関係(満足する万能的な関係)”と“悪い関係(バラバラにされる不安な関係)”が行ったり来たりする感じかしら。“良い関係”にいる時は赤ん坊もそれを長い間味わっていたいと思うでしょうし、“悪い関係”にいる時は何が何でもそれを追い出したいと思うでしょう、たぶん。それに対するお母さんの関わりと、その後は神経系が発達してくることも手伝って“外”というのが何となくうっすらとぼんやりと。お母さんのかける言葉や身体の温もりやまなざしなどの“ほどよい”関わりによって、そのうち「あれ、何かあるんじゃね?」と思い始め、2人のこころの境界がじんわりと認識されてくる。そして“良い関係”“悪い関係”という原初的な身体-感覚的イメージから「酸いも甘いも、それをひっくるめて1つの関係なんだよね」という成熟した理解になっていく。こんな感じなのかな、と思っています。
成熟した関係性
 “良い関係”もずっと続くことはないと分かって諦められるようになりますし、“悪い関係”も必死になって追い出すだけでなくそれを自分で抱えられるようになってくるでしょうし、もしくは、健全な形で相手にちょっと持ってもらうことも可能になるかと思います。個人的には“最初は世界そのものであった原初の関係性の中から個が生まれてくる、しかもその個は常に関係性の中にいる”という風に考えてます。常に関係性ありき。だから、人の性格なんてのは、その人生来のものもあるでしょうが、やっぱり親や先生や友達などとの関係性が源泉になるというイメージが強いです。また、ウィニコット先生に“ほどよい”という表現がありますが、この”ほどよい”母親は、子どもの依存性と自立性のバランスを取ることのできる母親を示します。ちょっとこれを考えると、”ほどよい”ってことは、少し“ズレ”があることをも意味しますね。このズレが関係性の中での2人の差異を育ててくれるんだと感じています。

 別の存在としての2人が最初からいるというわけではなく、原初の関係性という世界が最初にあり、ほどよい呼応の繰り返しによってその両端に2人が認識されてくる。個というのは関係性から“off”したものではなく“of”の状態と言っても良いかもしれません。つまり「個は関係性から派生するものの、決して分離はしない」ということ。この関係性を木村敏先生に倣って“あいだ”と称しても良いでしょう。“わたし”や“お母さん”は最初から“わたし”や“お母さん”なのではなく、“あいだ”によって次第に立ち現われてくるのかもしれませんよ。他にもいろんな考えはありますけど、自分はこの考えが一番しっくりきます。

 “ほどよい”というウィニコット先生の表現は非常に大事なもの。T細胞が胸腺で生まれて末梢に出ていく時も、自己抗原とほどよくくっつくのが条件でしたね。自己抗原を攻撃しまくるのも仲が良すぎるのもアポトーシスとなってしまいます。ほどよくない場合は“あいだ”が良い具合に統合されず、ひいてはわたしのこころも統合されません。“良い関係”にずっと浸っていたい、“悪い関係”は追い出すか避けるようにしたいと考えるんじゃないかなと思います。
統合されないと?
 ビオン先生の考えを持ち出すと、泣き声などの色んな赤ん坊の行動をお母さんがしっかりと抱えて(コンテインして)、そして試行錯誤をしながら、言葉を含めて適切な返しをしていくというのが健全な発達、赤ん坊自身の抱える能力の発達に欠かせません。この試行錯誤がコミュニケーションになっていく、と表現すると良いでしょうか。子どもが追い出したものをメッセージとして受け取るお母さん、そしてお母さんの返しをメッセージとして受け取って、また返す子ども。もし追い出したものをお母さんが受け取らない、受け取れないのであれば、子どもは依然としてバラバラになるような不安の世界から逃れられません。また、お母さんが返してみてもそれが子どもにとって見当違いであれば、子どもは絶えず追い出す行為をし、そこにコミュニケーションは成立しないままです。成長してもその子どもは言葉ではなく行動によって“不快なもの”を追い出してしまうでしょう、“行動の病”と言われるパーソナリティ障害のように。

”あいだ”コミュニケーション

 お互いの試行錯誤という“ほどよいズレ”が、子どもとお母さんという2人の統合された関係性を産む要素だと思います。こころは関係性の場、つまりは“あいだ”をはじまりとし、“わたし”という認識、そして“わたしと違う色んな人”という認識、更にはお互いの“かかえあい”能力の発展によって豊かな土壌になっていくと思われます。ほどよくかかえあうことの出来る関係性においては、土居健郎先生的に言うと“屈折した甘え”ではなく“健康な甘え”が見られることでしょう。

 「あれ、そういえばお父さんはどうなの?やっぱ影薄いの?髪も薄いし」と思うかもしれません(おい!)。お父さんは蚊帳の外という訳でなく、やはりお母さんが機能不全になった時はお母さんの代わりとして頑張ります。そして一番重要なのは、お母さんと子どもの試行錯誤を、外できっちりとカバーする役割。母親は子を守る存在ですが、父親は家族を守る存在だということですね。どちらかの親が欠けていることも最近は非常に多くなりましたが、必ず両親がいなければならないということはありません。母親的機能を持つ存在があれば、父親的機能を持つ存在があれば、本来のお母さんとお父さんの代わりになってくれることでしょう。それぞれを“母の名”を冠するもの、“父の名”を冠するもの、と言って良いかと思います。例えば保育園の保母さんとか、おじいちゃんとかおばあちゃんとか。昔は地域社会がその様な役割を担っていたのではないでしょうか。今はちょっと薄れちゃいましたね。

 さてさて、そんなこころですが、関係性で育まれるものなので、わたしという個人の中にあるものながら、他者との間、社会との間にもあるという、ちょっと不思議な現象になります。「俺のこころは俺のものだ!」と思いたいんですけど、関係性の中で出来てきたんですから、他の人にも開いていることになります。こころは自由にならないものなんですね。そんなこころの性質を眺めた上で、健康ってどういうことなのかを考えてみたいと思います。

 滝川一廣先生は「共同体的な広がりを持つこころは不自由なもので、健康っていうのはその不自由さに折り合いが付いている状態なんだよ」とおっしゃっていますが、これはまさにその通りだなぁと思っちゃいます。健康であれば悩まないし不安もない、なんてことは絶対にありません! みなさん悲しいことがあればがっくりと来ますし、不安に苛まれることもあるでしょう。イライラすることだって往々にしてあります。でも私たちは毎日の生活を精神科のお世話にならずに送っていける。「色々とあるけど、まぁ何とかやっていきましょう」「つらい日も多いけど、そこそこ生きていってるかな」という気持ちで日々を過ごしている、別言すると折り合いが付いていると言えましょう。

 悲しまなくても良くなる、悩まなくても良くなる、つまりはマイナスな感情がなくなれば良い、と言うのは、どだい無理な相談。ハッピーだけなんて、そんなこたぁできません。前述のように、こころは関係性の中で出来てきたもの。自分の中のみならず他の人にも開いています。“あいだ”性が強いとも言えますね。ということは、自分1人でどうこうできるものじゃないので、その部分で他者の影響を色濃く受けます。そこはとっても不自由な部分ですよね。その中で、悲しみを悲しみとして、不安を不安として、しっかりと自分で認めて抱えていく。抱えられない部分があれば、関係性として開いている他の人にちょっと持ってもらいましょう。誰かに愚痴を言ったり一緒に居酒屋に行って上司の悪口で話に花が咲いたり。わいわいと話すことで気が楽になるのは経験がありますよね。抱えられない部分をしっかりと言葉にして伝えるというのが、健全な甘えなのだと思います。特別な関係にある人となら言葉は不要で、ただそこにいるだけの柔らかな情緒で良いかもしれません。そういったことが何とかできているのであれば、いわゆる健康であることを示します。折り合いをつけられる、抱えられる、甘えられる、ということが健康のしるしかもしれんです。

 こころの成り立ちの自分なりの理解、そして健康とはどういうことか、というのをここまでお話しして来ました。では、最初にも投げかけた“どうやって精神科の患者になるのか”というところに迫ってみたいと思います。

 「起こった事柄や感情そのものがマイナスだから、健康じゃなくなって精神科のお世話になるんじゃないの?」と思う人もいるでしょう。でも、ここまで述べてきた自分の考えでは、それらへの関わり方の不器用さ、すなわち“あいだ”のほどよさが失われることから来るんじゃないかしらということになります。

 そのほどよさを失うとは、元来その人の持つ脳機能の脆弱性もあるでしょうし、生じた事柄や感情などの不自由さを抱えられなくなること、そしてそれを周りに持ってもらうことが出来なくなることなどがあるかと思います。それらが相まって“あいだ”の恒常性が崩れるとも言えましょうし“あいだ”での不全感が生じるとも表現できましょう。

 ここで1つ例を出してみます。精神科らしく、精神病理学華やかなりし頃の内因性うつ病の代表格である“メランコリー親和型うつ病”にお出まし願いましょう。メランコリー親和型(Typus melancholicus)というのは、テレンバッハというドイツの先生が提唱した“几帳面”“秩序志向”“対他配慮”からなるうつ病の病前性格というか生き方というか。ドイツと日本でしか流行しませんでしたし、日本でのメランコリー親和型とドイツのそれとはちょっと異なります。日本では高度経済成長期の勤勉に頑張るサラリーマン、というか当時の平均的な日本人像を思い浮かべますね。テレンバッハの『メランコリー』を読むと好ましい性格と記載されてはいるものの、決して適応的な人々ではなかったことが分かります。几帳面すぎてウザがられる人とか、几帳面しか能のない人とか、「お前ぜってー日本の企業で働けんよ」というのばっかり。なので、これから言うメランコリー親和型は、日本に輸入された際に改変された“日本的”メランコリー親和型だと思って読んで下さい。

 内海健先生にお出ましいただくと、メランコリー親和型の人々は、以下の様な対象関係のループを持つとのこと。
メランコリー
 主体、この場合は将来の患者さんですが、この主体から対象への献身的な尽力がなされます。この対象は上司や家庭や国など。献身の見返りとして、反対給付をもらいます。例えば「素晴らしい部下だな」と上司から信頼されること、「いいお母さん」と子どもが言ってくれることがそうですね。でも彼らは、見返りを期待して尽力しているという意識がありません。

 メランコリー親和型の人たちは、尽力し意識しない反対給付を得ることで、不自由さを何とか自分で抱えることが出来ていた。そんな“あいだ”に生きてきたと言えます。規範にとらわれて距離をとれず、柔軟性に乏しいのが分かりますね。大きな仕事を自分の課題だとして全面的に引き受けて頑張る。それが達成されて無意識に反対給付を得て、更に大きな仕事を自らの課題として…。これが回っているうちは良いんです。

 じゃあ、こういう人たちの発症はどういう時か?それは、このループがどこかで切れてしまった時。昇進という喜ばしいことも、見方を変えれば部下として評価されるということがなくなってしまいますし、定年になれば尽力する会社がなくなります。子どもたちが独立した、いわゆる“空の巣”なんてのも、献身すべき対象がいなくなってしまうことを意味します。頂上のない山があってずっと登れる体力があれば良かったんでしょうが、残念ながらそうではなかった。“あいだ”の恒常性が崩され、わけも分からないうちに不自由さを抱えられなくなってしまったのです。これが“患者さん”の誕生です。

 今回は日本の高度経済成長期にフィットしたメランコリー親和型という概念を交えて、”患者”になることを考えてみました。「今はそんなメランコリー親和型のうつなんていない!」という先生方もいますが、外来やってると今もちらほら見ることがあります。ただ、当時の日本人は程度の差こそあれこのメランコリー親和型が多かったでしょうから、うつ病になりやすい病前性格なのか、それとも単にもともと多くいたからうつ病になる患者さんも結果的に多かったのか、そこはちょっと不明です。当時の疫学調査も調べ方が甘かったと良く言われますし。また、献身と反対給付のループは、高度経済成長期の終身雇用が確保されていたから際立っていたんだと思います。今は常に付きまとうリストラとか消費者からの苦情とか、仕事と言うのが非常に不安定ですよね。みんな不安を持ちながら、それでも過剰なまでの仕事量を目の前に頑張らざるを得ない。しかも携帯電話やメールで職場に監視されているようで、家にいても芯から休めない。認めてもらえず肯定してもらえず、追われるような日々。コテコテの制止が前面に出るタイプよりも追い立てられるような不安焦燥が高まっているうつを良く見ますが、そりゃあそんなうつにもなるよなぁ、と同情してしまいます。

 すっごく精神科っぽい話でしたね。いつもの記事とは全く雰囲気が違うと言うか何と言うか。真面目でございました。次回は症状の持つ意味なんてのを見てみます。
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2013
07.23

えらい?こわい?

 しんどい時や疲れた時、なんて言いますか?

 名古屋に来てびっくりしたことの1つは、その表現として「えらい」を使うこと。患者さんが「身体がえらくてね」って言ったのを聞いて、「へ?えらいんですか?え?」と真顔で不思議がってしまった記憶があります。

 自分にとって「えらい」=「偉い」なので、体がえらいってなんだなんだ??という思いでいっぱいでした。

 結局患者さんには「先生ここの人じゃないね」とバレてしまいました。

 何度かブログで言っていますが、自分は北海道出身です。北海道では、しんどい時は


こわい


 って言います。若い人はあんまり使わないでしょうかね?良く父方の祖母が外出から戻ってきて「あーこわいこわい」と言っていたのを覚えています。

 その方言を知らない人が聞いたら「どんな怖い目に会ったの!?」ってなりますよね。

 方言は、その土地その土地で育まれたもの。「あー、地元を離れたなぁ」と分かる瞬間でもありますね。
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2013
07.18

覚書その0~若手の心構え

Category: ★精神科生活
 ちょっと順番が前後してしまいましたが、これが第0回でして、覚書の最初の部分であります。

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 精神科っていう科は、他の科よりも曖昧さがつきまとっています。「精神医学は科学なのか!?」なんてのは往々にして言われることですし、精神科医はそれに対してどこかちょろっと自信なく、何となく他科にコンプレックスを持ってしまう部分も。精神科を糾弾するサイトや本などもたっくさんありますね。これらは極論も多くて紋切り調。そういうのは大衆受けも良いんですが、現実に行われている診療のファジイさを認めず品のない批判に終始しているものもあり、教祖とその信者と化している雰囲気もあります。ただし「まぁ確かになぁ…」と思ってしまう部分もいくつか出てきちゃいます。こういうのは一笑に付すべきではなく、火のないところに煙は立たないという言葉の通り、反精神医学が何時の世もあるという理由を、私たちは真摯に考えねばならんでしょう、うむ。

 治療においては抗うつ薬や抗精神病薬といった向精神薬の出現により他科に近づいた感じはあるものの、そのお薬も実は怪しいもんです。うつ病ですとか統合失調症ですとか、そういう精神疾患のメカニズムというのは分かっていません。崩れそうな仮説を頼りに現在の薬剤はつくられており、特にモノアミンのみではもう先が見えてしまっています。その限界はきちんと認識しましょう。奇しくも薬剤が出たため、今の精神科医は症状が遷延する患者さんを“薬剤治療抵抗性”と見なしがちになっています。昔のコマーシャルで「バファリン®の半分は優しさで出来ています」っていうのがありましたが、まさにそれが今必要なんじゃないかしら。薬剤は環境改善と相まって効果が出てくるということを忘れてはいけません。薬剤だけあーだこーだやってもなかなか難しい部分もありますし、症状と副作用の区別も付けなきゃいかんのです。

 薬剤以外で治療者が行う治療法をまとめて精神療法と言わせてもらいますが、それには認知行動療法とか対人関係療法とか精神分析とか、色んなものがあります。精神科に入ったばかりだとこんな様々な治療法を見て「何をすれば良いんだこりゃ…」と途方に暮れてしまうこともあるでしょう。「どう患者さんに接して良いのか分からん…」と困惑してしまうこともあるかもしれません。しかも患者さん1人あたり3分から10分くらいの短い外来診療で“何たら療法”と言うような濃厚な治療は困難なことが少なくありません。こんな実情を踏まえると薬剤偏重になってしまうのもムリはないかも、とも考えちゃいます。極端だと、こんなんなってしまうかも?

患者さん「先生、なんか不安なんです…」
医者「よし、不安を抑える薬出しましょう」
患者さん「先生、飲むお薬が多くなって不安です」
医者「よし、不安を抑える薬出しましょう」
患者さん「oh…」

 さすがにそこまではならないですけどね…。

 更に言ってしまうと、精神科は診断というものすらはっきりしません。私たちが“統合失調症”と定義する疾患も、恐らくは様々な疾患を集めた“統合失調症候群”とも言えるもの。現在の精神科の診断はほとんど症状を指標にします。例えば腎臓の病気なら生検して“IgA腎症”とか“膜性腎症”とか分けることができます。でも精神科は症状のカタマリを“疾患(障害)”としてグルーピングするしかなく、暫定的なものです。上っ面だけを眺めて診断してるってことですよね。私たちが拠り所とするものは全てどこか頼りないというのが、今の精神科なのかしらと思ってしまいます。
症でなく症候群
 何だかはっきりしないものばかりの現状、私たちにできることは、曖昧さの中を、曖昧さを認めて進んでいくことだけ。でも、この霧の中の海原で、先を照らしてくれるような灯台も存在します。それは、患者さん自身にはしなやかな回復力、最近の言葉では“レジリエンス”なんて言いますが、その力があるということ。私たちはこれを信じて日々の臨床を行うことが大事なんじゃないかなって思ってます。我慢強く、耐える診療というのが多いでしょう。本に載っているいわゆる“症例”というのは「これこれこうしたらこうなった」みたいな変化の部分しか記載されません。でも実際は、患者さんの状態が変化しない期間の方が長いですよね。うつの患者さんなんか良くならないと「やっべぇ…」みたいな気分にさせられてしまうことも。患者さんは患者さん自身を責めて希死念慮みたいなのも口にするんですが、それが全て治療者への攻撃に聞こえてきてしまう場合があります(全部じゃないですよ)。そうなるとちょっとこっちも焦ってくる。そういう停滞した部分を凌いで凌いで、という作業が私たちに必要になります。その果てに変化は生まれるもの。患者さんも治療者も辛い期間をどう支えていくか、が特に若手にとって不安なんでございます。その部分が大事なんじゃないかなーと思ってはいるんですが、停滞部分が本になっても確かに読書意欲は沸いてこないですな。。。

 そういうことを鑑みると、今回の覚書は、精神科医になったばかりの若手や精神科ではない先生が患者さんと接するにあたって「どうやれば非侵襲的であれるか」というのを目的としています。初めに会った患者さんに対しても、なかなか治療に反応しない患者さんに対しても。良くならなくてやきもきしてついお説教してしまう衝動に駆られて言ってしまわないように、というのが大事になってきます。レジデントの中には「え、何でそんなこと言っちゃうの!?」ということを言う人も少なくありません。

患者さん「先生、やっぱり調子悪くて…」
医者「それはね、あなたの考え方が悪いんですよ。もっと前向きに考えて下さい」
患者さん「は、はい…」

 悪気はないと思いますが…。改善しない時なんかはこっちは針のむしろみたいな気分ですから「何とかしないと!」と焦ってつい色々言ってしまう…。すっごくそういう気持ちは分かるんですが、こんなんで前向きになれたら、わざわざ医者のとこには来てませんよね。言葉というのは希望を灯す役割を持ちますけど、同時にその灯をフッと消してしまうような危険性も有しています。精神科医は言葉を上手に使わんといかんです。自分では何とも思わずに投げかけた言葉が、患者さんにとってはきっつい一言になりうるという暴力性を秘めたものだということ、これをしっかり認識しましょう。なかなかそういう側面に気づかないレジデントは才能がないというワケではなく、精神科の基本ソフトがまだ入っていない人なのだと思います。それを入れてしまえば致命的なミスは避けられるのではないでしょうか。精神科には精神科独自の基本ソフトがありますし、恐らく他科よりもその数はかなり多いんだと思います。その1つをちょっと紹介出来れば。そんな私もひょっとしたら他の先生からは「お前、何でそんなこと言うんだよ…」というような内容を患者さんに言っているのかもしれませんが、一応、経験したり勉強したりして身に付けた害の少ないものをお話ししていきます。まだ若手の私が若手なりに感じたことをお伝えしてみよう、ということ。若手だからこそ、身の丈に合った考え方を提供できると考えています。

 ここで注意して欲しいんですが、侵襲的なもの全てが悪いわけじゃあないですよ。患者さんがその侵襲をしっかりと受け止めて消化してくれるのであれば、それは治療的なものとなるでしょう。ただ、そのタイミングを私含めて若手や他科の先生が見定めるというのはなかなか難しいもんです。だから、まずは無難なラインで何とかしのぎ“来るべき時を待つ”みたいな戦法が重要。えいって切り込むよりもデュオアクティブ®を当てるような。アクロバティックなもんじゃなく、地味だけど患者さんの回復力を邪魔せず助けるような、そんなお作法。上の先生から見ると面白みのないものに見えると思いますが、あくまでも若手用の基本ソフトと思って下さい。難しい概念を説明抜きに使うことや、持って回ったような表現をすることなんかはせず、できるだけ分かりやすくしていきたいなと考えています。

 いざ説明と言っても、精神科領域っていうのは、ちょっと勉強しようと思って大御所的な本をめくってみると、「これ医学?」と思っちゃうような人文科学的なものも多く理解しづらい。。。仮に通読しても…。

A先生「いやー、読み終わったよこの本」
B先生「お、すごいじゃん。精神病理?」
A先生「そうそう。頭良くなった気がするわ」
B先生「へー。で、どんなこと書いてあったの?」
A先生「え?」
B先生「え?」

 というような。中には文体が厚化粧で、「この人わざと俺に分からせないようにしてるんじゃ…」と被害関係念慮になってしまうものも。それが初学者を入らせない壁になってて、若手の意欲はポッキーよりも簡単に折れて諦めちゃう。うだうだ難しいことを言わず、まずは下地として分かりやすいものが大事。病態別の対応ではなく、ちょっと観念的ではありますが、患者さんがしっかりと歩いていけるための汎用的な視点を持てればなと思ってます。とは言っても、基本的な精神分析や精神病理学(精神疾患の症状を細かく見て、病める患者さんの心理を探求する学問)の知識はあった方が良いと思うので、臨床に役立つものをピックアップして少し説明も交えていきましょう。

 ここまでの話だと、精神科医は優しければ万事O.K.なのかという思いがよぎるかもしれませんが、決してそうじゃありません。患者さんに対して無条件に優しくなる、平たく言えばひいきをしすぎると“患者・医者vs.家族”や“患者・医者vs.看護師”というような構図が出来てしまうでしょう。更には患者さんが味方である医者との関係をずっと続けていたいと思ってしまう、つまりは「ずっと患者でいたい、治りたくない」と思うこともあるでしょう。人間関係を引き裂いてしまうこと、“患者”と言う役割に埋没させてしまうこと、こういうことは全くもって治療的とはいえません。とは言え、患者さんの苦しみというのはなかなか理解されるものでもないことは実感するところです。家族は何とかしようと頑張っているかもしれませんが、そうそううまく行くものではありません。そのうち家族も焦ってきて、それが患者さんに伝わってしまう。良い相互作用というのは難しいものです。なので、医者としては、心に響くような優しい存在でありたいものです。ただし、冷静な優しさとして。

 これからいくつかのお話を章別にしていきますが、良いか悪いかは別としてエビデンスとは程遠いものばかり。できるだけ平易でイメージのつきやすい感じで。目指すべきは、患者さんにとって害にならないような精神科医としての構え、それもどの若手にとっても受け入れられそうなもの。患者さんにとってきつい言葉も害になる、ひいきをしすぎても害になる。うまくその間、繰り返しですが“冷静な優しさ”を持てるようになれればこれ幸い。その見守るような優しさを伝え続けることで、患者さんは安心と希望を得られて自分自身の回復力で立ち直っていける。これが精神科治療のほんの入り口だけれども根っこなんじゃないかしらと考えています。認知行動療法も必要でしょう、精神分析的精神療法も必要でしょう、家族療法だって大事でしょう。でもどんな治療法も「冷静な優しさを持ちながら患者さんを理解しよう」という治療者の姿勢があってこそだと思います。

 個人的には、治療者の役割のキーワードは“松葉杖”の一言に尽きると思ってます。患者さんは足を骨折すると、必要な時期に松葉杖を自らの力で用います。そうやってリハビリをして、だんだん歩けるようになる。すると患者さんは希望を持てるようになりますよね。そしてその骨折が治ると、その部分は骨折の前よりも強くなっています。1人で歩いていける患者さんは、いらなくなった松葉杖を捨てるでしょう。精神科医は、そんな希望を持ってもらって最後には気兼ねなく捨てられるような松葉杖でありたいと思います。

 繰り返しですが、この覚書は若手や他科の先生用の基本ソフト。しかも多くあるうちの1つに過ぎません。みなさんは自分自身でどんどん勉強していくことでしょう。その中で「あれ、こいつはこう言ってるけど、この人の言ってることの方が納得いく!」と感じたら、ぜひそちらにシフトして下さい。また「おれはこう考えたけど、こいつとは少し違うな」というのがあれば、ぜひあなたの考えを追求していって下さい。私のお話するのは、あくまでも1つのものの考え方。できるだけ害を少なくしてブロードにしたものです。私の意見でずっと止まっていたら進歩はないと思います。これをアレンジしたり踏み台にして他のところにジャンプしたり、たくさん勉強してあなたなりの患者さんとの接し方を築いてほしいなと思っています。基本ソフトはアップデートしたり、はたまたより便利なものに乗り換えたりするものです。しかも精神科は色んな人が色んなことを言っていますから、普遍的な正解を見つけようとすると、たぶん八方塞がりになっちゃいます。自分自身で納得の行くものを探して、作って、その繰り返しが大事。木村敏先生という精神病理学の大家も「みんなに共通の精神病理学なんてのはなくて、それぞれにそれぞれの精神病理学があるんだよ」というようなことを仰っております。

 そして、私たち精神科医には滾るような情熱も必要。絹のような優しさも必要。でも、それが沸点に達してはいけないし、包み過ぎて柔らかな白さの世界しか見せないのもよろしくない。ちょっと水のような、ポリエステルのような、そんな冷静さも絶えず持っていなくちゃいけません。特に私を含めて若手は熱意が先行することがありますから、ちょっと振り返りが必要になりますね。

 そんなこんなで、ちょろっと精神科の覚書なんてものを始めてみます。
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2013
07.15

ベッタベタやん

Category: ★精神科生活
 アリピプラゾール、商品名はエビリファイ®と言いますが、これは抗精神病薬の1つで、日本の大塚製薬がつくりました。2013年6月には”うつ病”への適応(増強療法として)が取れましたね。強迫性障害の増強にも少量投与はかなり効きまして、こちらも適応を取って欲しいなぁと思っています。

 一般的に抗精神病薬は「少量で賦活、多量で鎮静」と言われます。非定型に限ったことではなく、定型の時代でもそれは言われていました(←これ重要)。でもその差が明確なのが非定型で、その中でも最も明らかなのがエビリファイだと思っています。パーシャルアゴニストという不思議な薬剤ですが、シナプスにある受容体の数との兼ね合いでその振る舞いが”アゴニスト”になるか”アンタゴニスト”になるかが変わってきます。もちろんエビリファイの量によっても変わってきます。

 なので、投与量と受容体数の両者を考慮しなければなりません。しかも受容体の数は実際に見ることが出来ないため、臨床的なさじ加減が重要。基本的には「少量で賦活、多量で鎮静」という性格が最も強い抗精神病薬と考えるのが良いかもしれません。ただ、鎮静の絶対的な強さは鎮静系に劣ります(オランザピンとかクエチアピンとか)。賦活と鎮静の相対的な差が大きいというのがエビリファイの特性でしょうか。

 ちなみに大塚製薬のMRさんは、「アメリカで最も売れてる抗精神病薬です!」と言ってはいますが、これは他の抗精神病薬は既にジェネリックが出ているという事情もあることを忘れてはいけません。単にエビリファイが優れているから売れているというイメージを抱きがちですが、決してそうではない。アメリカはジェネリック大国ですからね。そのエビリファイも2015年くらいには確かジェネリックがアメリカでは出るはずなので、売上がガクンと落ちるでしょう。

 さてさて、そんなエビリファイですが、イメージキャラクターはご存知サンリオのシナモロールです。タイアップ商品をこれまでこのブログでも紹介して来ました。今回もそれをお見せするのが目的でしたが、相変わらず前置きが長かった。。。

 今回はマウスパッド。こんな感じ。

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 おや、何か持っていますね…。拡大してみると…

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エビフライ!



 エビリファイとエビフライ。ちょっと似てることからこんな脂っぽいもの持たされて、シナモンちゃん…。笑顔を振りまいてますけど、手ぇベッタベタですよ。。。後でしっかり洗って下さい。

 エビフライで思い出しましたが、エビリファイはなかなか患者さんが名前を覚えられないお薬。”エビリファン(おしい!)”とか”エビリファイブ(なんか5になったよ!)”とか。秀逸なのが



エブリワン



 違う意味になっちゃったよ!

 そんなエビリファイでございました。
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2013
07.11

覚書その1~精神療法としての”あいだ”

Category: ★精神科生活
 今回から覚書シリーズを始めてみたいと思います。若手の精神科医や精神療法に興味があると言うちょっと変わった(?)他科の先生方に向けて、非侵襲的な心構えのほのかな香りみたいなものをお伝えできれば。

 テクニックなんて大それたものは、自分も教えてほしいくらいで、お示しできませぬ…。自分が勉強したり経験したりした中で、患者さんや家族を傷つけずに何とか外来通院を続けてもらえるような??そんな程度のもの。

 1回目の今回は、全体のまとめ的な感じでさらっと。

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 木村敏先生の思想として“あいだ”というものがあります。これから自分の言う“あいだ”はその本家本元の木村敏先生の様な深みはありません。浅く、個人という認識が生まれ出てくる基盤であるとか、もっとあっさり言うと相互作用とか関係性とかでも良いかもしれません(木村先生はゾーエー的な用い方を現在はしておられますね)。精神科医が行う日々の外来での精神療法を、”あいだ”という考え方を軸にして見てみたいと思います。

 まず、人は因果で考えがちでございます。“原因→結果”というやつですね。それが精神科の土壌に上がると、親が怒る“から”子どもがひねくれた、なんていう論理にもなってしまいます。でも事態はなかなかそう単純でなく、ひょっとしたら子どもがひねくれてる“から”親が怒るのかもしれんですよ。どっちが原因でどっちが結果かというのを考えだすと、責任のなすりつけ合いになってしまうかも。しかも、人は余裕がないと一面的なものの見方しかできなくなります。「あんたが悪いのよ!」「そっちだろ!」の応酬から抜け出せず、それからさらにお互いカッカしてしまう。ありがちなパターンですなぁ…。

 何が言いたいかというと、現実的には、ものごとはお互いに影響している、ということ。ひねくれてりゃ怒るし怒ればひねくれるし。部分は全体に影響を与えますし、全体はもちろん部分に影響を及ぼします。家族の誰かが怒っていたら、やっぱりみんな晴れ晴れとした気分になれません。また、そういう空気に家族全体がなってしまうと、それが嫌で誰かがイライラしてしまうかもしれませんよね。だから、あんまり原因を根詰めて探すのは大きな利益ならないことが多いんです、実は。患者さんに味方しやすい治療者だと相手を一緒に攻撃してしまうかもしれませんし、気に喰わない患者さんだと周りと一緒に患者さんを責めちゃうかもしれません。そのどちらも治療的じゃあないというのは明明白白でございます。

 そこで、私たちは“あいだ”に視点を移すことで単純な因果論から抜け出しましょう、と言いたいのであります。
視点のずらし
 もちろん根深い原因を探ることがいけないってことじゃないんでしょうが、自分の様な若手という身分ではこの場における“あいだ”に眼を向けて、それを安定化させることが最も非侵襲的だと考えています。言ってしまうと、本当の原因と言うのは実際のところ良く分からんですし、複雑に入り組んでいるでしょう。患者さんの症状だって今や複雑な因子の1つかもしれません。となると、原因って言うのは暫定的に患者さんとの合意によって得られたものにしておくのが良いという場合も多いんじゃないかしら。一応そうしておいて、患者さんの置かれている“あいだ”を柔らかくしていくのがポイントだ!と想像しています。

 “あいだ”の安定化は支持的精神療法の骨格になる部分ですし、精神分析的な“転移/逆転移”もお互いの感情のモニタリングとして利用すれば色んな側面から考えることができて患者さんの理解にもつながりますし(解釈するしないは置いておいて)、家族面接も“あいだ”に介入する良い方法。言いたいのは、“あいだ”への着目を促して現時点での患者さんの“あいだ”をゆっくりで構わないから良くしていこうということに凝縮されるっていうこと。患者さんや周りの人に色んな考え方を持ってもらうことが重要。

 上述したように、ゆとりがないとみんな考え方が悪い感じに固まってしまうので、そこが苦しくなる点だと思います。良く用いられる例えではコップに半分入ったお水を見て「半分しか入ってない」と考えるか「半分も残ってる」と考えるか。同じ事象でも、見方によって全然印象が違いますよね。だから、押し付けにならない様に、症状や行動の持つプラスの面を伝えていきましょう。患者さんは、“患者以前”の状態では何とかやって来られたわけです。でも状況が変わって“あいだ”が苦しくなり、それまでのやり方が通用しなくなって、“患者”になってしまっています。症状や行動はそんな苦しい”あいだ”で何とか患者さんなりに生きていくための手段なのかもしれません。でも、暗雲垂れ込める”あいだ”では肯定的に見ることはできず、患者さん自身も“あいだ”の人々もマイナス方向に眼が向いてしまってます。自分、家族、他人、今の状況、過去の状況、色んな事を責めちゃいます。治療者は苦しみを理解して、これまでの患者さんのやり方にプラスの意味を込めて、それを認めていきましょう。その上で、今後の方向としてどうして行こうかを考えていくことが大切なんじゃないかと思っています。リフレーミングなんてのはその代表格でしょうか。家族という1つのシステムを考えるなら、そのシステムの不調により患者さんは症状を呈することになります。よって、まずそのシステムを安定に持ち込むこと、それによって患者さんは症状を手放しても良い状態になる、となります。

 ただし、焦っちゃいけない。“あいだ”を良くしようと思って、自分の思う考えを患者さんにどんどん言うと「この先生私のこと分かってくれないわ―」となるでしょう。まずは“支持的”であること。そして大事なのは、変に素早くて薄っぺらな共感ではなくて、なるほどなーと思えるところまでは聞いて、その後に「あなたの置かれている状況なら、そうなってしまうのも無理はないかも知れんね」と示す”認証”を持ち出すこと。診察の場としての“あいだ”をまずは安定させましょう。そうすると、患者さんの状態が良くなって例えば家庭での“あいだ”も安定に向かうかもしれません。以下の図では、マイナスやネガティブな方向を黒で、プラスやポジティブな方向を白で示しています。
改善のイメージ

 更に家族面接をすると、家庭での“あいだ”もより速やかに改善するでしょう。また、デイケアなどで居場所が出来たり友人が出来たりすることも“あいだ”を良くします。常に患者さんの“あいだ”に注目して治療を働きかけることが重要ですね。
家族面接プラス

 もちろん改善への階段を何の障害もなく登れると言う事は、残念ながらないんです。さっきの図では①→②→③→④でしたが、実際は①から②に行くまでに時間がかかりますし、②に行ったと思えばまた①に戻ることも多いです。④まで行ってもそれが安定せずに③、②、①と下っていくことも往々にしてあります。それでも私たちは患者さんのレジリエンス(しなやかさ、回復する力)を信じ、“あいだ”の意識を以て接し続けることが扇の要なんじゃないでしょうか。
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2013
07.09

救急外来のめまい

Category: ★研修医生活
 今朝は研修医の勉強会でした。自分も昔の知識をフル活用してコメント役として出ているんですが、お題のうち1つは”めまい”でございまして、救急的にはやはり小脳梗塞に代表される中枢性めまいが戦々恐々としてしまいますね。

 全めまいの50%を占めるという末梢性の代名詞”BPPV(良性発作性頭位めまい症)”は、耳石がペリっと剥がれてしまうのが原因。病歴をとると”BPPVらしさ”が浮き上がってきます。

Pt.「めまいが…」

Dr.「ぐるぐるめまい?雲の上を歩いてるようなふわふわめまい?それとも立ちくらみみたいに目の前真っ暗?」

Pt.「ぐるぐるです」

Dr.「いつから?」

Pt.「朝からです」

Dr.「朝起きてすぐ?」

Pt.「はい」

Dr.「朝起きて何かしようと思ったのかしら。ちょっと思い出してみて下さい」

Pt.「朝起きて、目覚ましを止めようと思ったらです」

Dr.「目覚ましを止めようとしたのね。目覚ましっていつもどこに置いてるの?」

Pt.「手で届くとこなんで…。左手ですね」

Dr.「じゃあ、朝起きて目覚ましを止めようとして左を向いた時なわけね」

Pt.「あ、そうです。その時に」

Dr.「左、ね。後はどうかしら。聞こえづらいとか耳鳴りとか、頭の痛みは?」

Pt.「あ、そういったのはないです」

Dr.「めまいはどう?ずっとぐるぐる?」

Pt.「はい。ずっと気持ち悪くて…」

Dr.「今この時点ではぐるぐるしてないみたいね」

Pt.「あ、ぐるぐるは休んでればすぐ治まるんですけど、また動くと…」

Dr.「あぁ、なるほどなるほど」

 こんなのが典型的なBPPVですよね。頭を動かした時にぐるぐるっとなる。良く聞くと、どこを向いたかまで患者さんは教えてくれます。耳症状がないことを確認し、まためまいの持続時間をチェック。BPPVならほとんど1分以内。注意したいのは、患者さんは気持ち悪いため、めまいの持続も「ずっとです」と言う時があるという点。それにつられて「あれ、めまいがずっと続くのか。BPPVじゃないんじゃない?」と思うのは早計でございます。詳しくめまいそのものを問診。動かずにいると耳石も静かなので、めまい自身はセーフ。だから患者さんはじっと1つの姿勢をとっていますね。後は、慣れってものがありまして、何度も頭を動かしてるとめまいも少し軽くなってきます。でもちょっと拷問的…。この慣れは後述のDix-Hallpike testを2回した時なんかに見られます。眼振を見るのはちょっと慣れるまでは難しい。

 診察はそのDix-Hallpike testですが、感度は60-90%、特異度90-95%とされます。ちょっと感度にバラつきあり。陽性ならそのままEpley法に持って行って治します。自分は、Epley法は1人の患者さんに2回やって2回目で上手くいくというのが多かったですね…。ポイントは、1つのポジションで1分半~2分くらいは待つ!ということでしょうか。頭を動かして耳石を元の位置に戻すので、1回動かしたら耳石が落ち着くまで待ちましょう。その時間が1分半くらい。その後にまた動かす。少なくとも5分以上の時間をかけるぞ!という思いでやってあげると良いですよ。治る時は「あ、楽になりました」と言ってくれます。

 Dix-HallpikeもEpleyもいい加減に覚えていると効果がないので、しっかりと勉強。身体を倒す時にちゃんと頚を後屈させるのが大事なんですが、それを忘れてただベッドに横にしてるだけだとダメでございます。

 末梢性めまいの治療薬ではメイロン®が日本ローカルに行われています。プラセボ効果だ!と言われて久しいですが、まぁ効くんならそんな効果でも良いんじゃないだろうか。でもやるんなら点滴じゃなくて静注です。40mLくらいを使います。アルカローシスになるので口の周りがしびれる、という患者さんもいます。個人的には、高浸透圧のメイロンを血管内に入れたことで、血管内に水を引っ張る力が強くなりリンパ水腫のむくみを緩和するのでは?と空想。アシドーシスアルカローシスは関係あるのかないのか。

 他にはアデホス®を点滴する医者もいますが、アデホスって半減期めちゃめちゃ短いんですよね。10秒くらいだったでしょうか。だからそんなの点滴してもね…。ただしこれを「えいっ」て静注すると心臓に効いちゃいますんで、めまいの時にしちゃいけません。そうでなくとも心臓が少しの間止まるし。

 自分は、めまいには五苓散を2包まず頓用してもらいますが、救急外来でそんなことすると他の医者とか看護師さんから「漢方なんて飲ませて何やってんの…?」という目で見られかねません。なので、頻用していたのは「プリンペラン®1AとアタP®1Aを100ml/hrで流す」でした。これ結構良いんじゃないかと。ちょっと寝かせておく意味も込めて。

 ”コワイめまい”については、林寛之先生の『Step Beyond Resident』の6巻に詳しく書かれてあるので、研修医の皆さんは是非そこを読んでみて下さい。

ステップ ビヨンド レジデント 6 救急で必ず出合う疾患編 Part 3ステップ ビヨンド レジデント 6 救急で必ず出合う疾患編 Part 3
(2010/10/11)
林 寛之

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 自分としては、最終的には


歩いて帰れないめまいは無理に帰さない


 だと思っています。車椅子に乗せて例えば家族の車まで連れて行って帰すというのは、しない方が良いです。そういうめまいは中枢性の可能性が高い。指鼻試験とか膝踵試験とか回内回外なんてのは小脳上部を見るもので、小脳下部を見るならやっぱり”立ってきちんと歩けるか”です。そこを忘れずに。

 ちなみにMRIは一般的な脳梗塞でも感度が90%ちょいなので、小脳に特化するともっと下がります。だから、MRIで空振りでも安心はしちゃいけない。研修医最大の武器である”コンサルト”を積極的に用いましょう。
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