2013
01.29

色が、変わった…?

 たまーにご飯を食べに行く”サワデーすみ芳 鶴舞店”。ここはタイ料理屋さんではありますが、日本人向けに食べやすいようにアレンジされています。本場コテコテを望むならちょっと物足りないかもしれませんが、安めの値段である程度タイっぽさを味わえます。安いっていうのがポイントかも知れません。結構しっかりしたタイ料理屋さんって意外と高めですしね(名古屋だとスコンターとか?)。

 ここはランチとかセットとかは、プラスチック(しかもオレンジ色)のトレーに乗って出てきます。ここがチープさを最初にインパクトとして与えますね。この色が学食っぽくて、事実名古屋大学鶴舞キャンパスのトレーは間違いなくこの色です。木製にするだけでもぐぐっと雰囲気変わると思うんですが、どうでしょう?

 このセットにはデザートとして”サクー”が付いてきます。サクーってのはタピオカとココナッツミルクのデザートでして、それがコチラ。



 この緑色が何ともね。。。

 どうにかなっちゃった筋子 的な???

 アップしましょう。

PA0_0264.jpg

 うーん。。。

 カラータピオカはメジャーっちゃメジャーで色とりどりありますが、人工的な緑ってのが個人的になかなかな色です。

 サワデーすみ芳へ行く度にこのタピオカを見て「うーん」と唸るのがデフォでした。”でした”ということは…?

PA0_0477.jpg

 画像向かって右奥、何とこの前行ったら抵抗感のない色になっているではありませんか!!!ちなみに向かって左奥のスープはトムヤムクン。辛い…。

 アップにしましょう。

PA0_0476.jpg

 更にアップ。

PA0_0475.jpg

 おー。あらー。毒気のないお顔に。。。

 いざ変わると何か物足りなさを抱くのも人間の傲慢か。

 長らく緑色だったと思いますが、何で変わったんでしょうね…。あの強烈な存在感を示していた異色のサクーは、世間の荒波に揉まれてかすっかり落ち着いてしまいました。今後どうなっていくのやら??でもトレーは安心のオレンジ色プラスチック。

 ちなみに、ここのタピオカはもちもちを少し通り越した感じの歯ごたえ。茹でる時間が少し長いのかも。
Comment:0  Trackback:0
2013
01.25

ボーダーラインの病態や対応

Category: ★精神科生活
 境界性パーソナリティ障害について力動的な病因と生物学的な病因をさらっと見て、実際のアプローチの概観を原田誠一先生の図でお勉強。まずは以前の記事を少しだけ再掲。

-----
 “ボーダーライン”とか“ぼだ”なんて呼ばれている境界性パーソナリティ障害(Borderline Personality Disorder:BPD)ですが、この“境界”というのは、神経症とも精神病とも言えない、はっきりしないところを指す単語である”境界例”として出現しました。そしてこの言葉を精神医学にしっかりと根付かせたのが、我らがカーンバーグ大先生(Otto Kernberg)です。彼は1967年、パーソナリティ構造を同一性、防衛機制、現実検討能力、対象関係といった視点で分類しました。そこで神経症性と精神病性の境界として存在する“境界パーソナリティ構造(Borderline Personality Organization:BPO)”の精神内界を

“同一性が拡散しており、防衛機制は原始的なもの(分割、投影同一化、否認など)を用い、現実検討能力は部分的には損なわれておらず(心的負荷により一時的に精神病的となる)、特徴的な対象関係を持つもの”

 という風にとらえました。

 まとめると、境界例とは“脆弱な自我がベースにあって、情緒調節と衝動コントロールが困難であり、関係性や自己イメージが不安定となり、通常は保たれている現実検討能力が心的負荷により一時的に損なわれ精神病的になる”という像を示します。

 今のDSMでは“境界例=BPD”とはなっていません。境界例のうち、精神病的な色合いの強いものが統合失調型パーソナリティ障害(Schizotypal Personality Disorder)に、対人関係の波立ちの強いものがBPDに分割されているように見受けられます。最近は双極性障害の概念拡張と相まって、気分障害との鑑別が話題になるBPDですが、それからも分かるように現在のBPDの考え方は精神病性要素が薄まっている概念と考えられます。
-----

 こんな感じで書いておりました。

 BPDの有病率は一般人口の1-2%、精神科外来患者さんの10%といわれていますが、これにどのくらいの信憑性があるのかは疑問。双極性障害を広くとる先生は「ボーダーって紹介された患者さんはほとんどが双極性だ」と言いますし、ボーダーを広くとる先生は「双極性障害と過剰に言われている」とも。笠原嘉先生は「うつの治療を不味くすると、容易に境界例を作ってしまう」とも述べられており、神田橋條治先生も「こじれるとすぐ境界例とレッテルを貼ってしまう」「精神分析を受けて自分が分からなくなってしまう患者さんもいる」とおっしゃいます。正確な有病率は分からないですね、正直。。。これが、精神医学が問診に頼らざるを得ない、発展途上な分野だということの傍証かもしれません。自分はBPDと名付けると何か治療において無力感が出てくるので、出来るだけ最初から付けることはしません。しっかり経過を追って、環界との関係性を見るようにします。BPDは1人じゃ成り立たず、必ず相手を必要とします。木村敏先生的に言うと、”あいだ”の病そのものと言えましょう。ただ、BPDも40歳を過ぎてからはその勢いが落ちてくるようなことが分かり始め、以前のような”負け戦”ではない、とのこと。年をとると丸くなる、というのがまさにピッタリ(”香り”はしっかり残る患者さんも多いですが)。妙にいじくらないで、40歳まで何とか自殺されないように適切な距離を取りながら関わって支持していく、というのが現実的なスタンスかもしれません。

 力動的な病因論としては、カーンバーグ先生とマスターソン先生が二大巨頭でしょうか。最近はフォナギー先生も食い込んできている?

 そのカーンバーグは、葛藤モデルの旗手と言えましょう。BPD患者さんはマーラーの言う分離個体化過程に固着があり、神経症水準の患者さんのような精神構造になっていません(エス、自我、超自我になっていない)。そうではなく、欲求充足的なユニット(万能的対象とそれに従う自己、そしてその関係の中に存在する愛情)と欲求挫折的なユニット(敵意に満ちた対象とそれに怒る自己、そしてその中に存在する攻撃性)の2つから出来ており、前者が後者に侵害されない様に分裂させられている、ということらしいですよ。生得的な衝動性とそれに由来する内的対象関係の病理を重視しています(あまり現実の環境に重きを置かない)。

 マスターソンも同様ですが、より環境因を特に前期の彼は重視しておりました。同様に2つのユニットであるRORU(Rewarding Object Relation's part Unit)とWORU(Withdrawing Object Relation's part Unit)の分裂、としています。更に、分離個体化の再接近期に子どもが自律的にふるまおうとすることについて母親が「見捨てるわよ!」という脅迫をしてしまうことで、子どもに”見捨てられ抑うつ”が生じて発達停止に。そして第二の分離個体化期である思春期に病理が花開く、という説明になっています。カーンバーグとは異なり、母親の養育態度を重視しています。

 今回、教授から読むように送られてきた文献があるので、それで生物学的なところを勉強してみます(尾崎紀夫. 境界性パーソナリティ障害の病態理解から共感的対応へ. 精神医学対話. 弘文堂. 東京: 2008; 792-808)。

 BPDの特徴として「感情の不安定性」と「衝動性」が挙げられます。情動には”対象を知覚→知覚内容と記憶の照合→個体の生存に有用化の価値判断→情動表出”という順があります。人間の情動においては、知覚刺激として対人的な状況が、情動の表出として他者の想定がそれぞれ重要であり、これは「対人関係や自己像の問題」といった社会的な部分と不可分の関係にあります。

 情動と社会性とは関連しあっていますが、その役割は扁桃体を中心にした以下の構造が担います(参考文献より)。

情動とCNS
(クリックで少し拡大)

 BPD患者さんは他者の表情から怒りの感情を読み取る傾向が強く「私は悪くないのに皆から責められている」と感じることが多いです。他の人は全然そう思っていなくとも。これには不安や恐怖と言った感情と関連の深い扁桃体が過剰反応していることが分かっており、さらにストレッサーへの短期的/長期的なシステムとしてのHPA系と養育体験との関連も指摘されており、こういったところが脳科学から見た基盤と言われています。

 ここで、フォナギー先生のいう”mentalization(メンタライゼーション)”を引っ張りだしてみましょう。フォナギー先生は、BPDの中核的な欠損は環境的にとりわけ親・子関係によって引き起こされた心理機能(メンタライゼーション)の発達の失敗ととらえています。メンタライゼーションとは『黙示的にも明示的にも、こころの状態や精神的過程の観点から、お互いのこと、そして自分のことを理解するということ』で、これは安定型の愛着によって大いに促進された発達的達成であるとされます。

 養育体験というのは力動的理論からも愛着理論からも重要視されますが、それらと生物学的精神医学とをつなげることができます。先ほど”HPA系と養育体験との関連”と述べましたが、養育体験がHPA系遺伝子にエピジェネティックな変化をもたらすことで、メンタライジング機能の不全・情動の不安定性に関与するのではないか、ということがだんだんと明らかになってきています。エピジェネティクスというのは今大変研究が進んでいる分野。生物学的な追及を進めていったら精神分析を再発見とうのは、何か数奇なもの(良い意味で)を感じます。

 HPA系は様々なストレスによって賦活化され、コルチコステロンが産生されます。ミネラルコルチコイド受容体とグルココルチコイド受容体が脳内の標的ですが、ストレッサーに対してパッと反応するのは前者で、将来的なものに備えて毎度のストレス反応に関する記憶を貯める長期的なシステムが後者とされます。虐待といった養育体験がグルココルチコイド受容体遺伝子などの発現に影響を与え、扁桃体などのストレス応答性の記憶に影響を与え、その結果として対人的なストレス負荷に対し情動的な過剰反応が生じやすい、ということが考えられます。

 今回はメンタライゼーションを持ち出しましたが、これでなくともクライン派の言うことでも結構同じことを言えるんじゃないかと思います。彼ら対象関係論的な言い方をすると、BPDは抑うつポジション(D)から容易に妄想-分裂ポジション(Ps)に移ってしまいます。もちろんこのPs⇔Dというのは健常人でも起こりますが、BPD患者さんはその閾値が異様なまでに低いです。治療者は患者さんから排出されたものをしっかりとコンテインし、患者さんがかかえられる形にして返すということを行うのですが、その作業も患者さんのメンタライジング機能を高めるためと言えましょう(たぶん)。門外漢だからこそのばっさりとした言い方かもしれませんが。。。ACTのフュージョン/脱フュージョンも対象関係論との類似性があるのでは、とちょろっと記事にしましたが、フォナギー先生のMBT(mentalization Based treatment)での中核理論であるメンタライゼーションは、”クライン派のポジション”を愛着を絡めた観点から狭く意味付けしたことのように思えます。ま、こまけぇこたぁいいんだよ!!(AA略)

 さて、対応について認知行動療法の大家である原田誠一先生にお出ましいただきますと。。。先生は以下の図を示しながら説明をしていきます。この図がまた秀逸で秀逸で。すんばらしいですね。自分も患者さんに説明する時に使わせてもらっています。患者さんは「あー、確かにそうですね」という感じで納得してくれますし、こうやって視覚化することは患者さんの抱えているものを外在化する利点があります。患者さん自身は「なんで自分がこうなのか!?周りはなんで自分を攻撃するのか!?」という感じで混乱していることも往々にしてありますから、これを見て「なるほど自分はこういうループにはまっていて、そのベースにこんなのがあるのか」と感じてくれます。これが介入の第一歩としてとても重要。ちなみに原田先生は意図したわけではないとおっしゃっていましたが、この図は結果的にDSMの診断基準も盛り込んだ形になっています。

BPDの悪循環
(クリックで拡大)

•中心となる基本テーマに、(1)自信がない、(2)資質を生かせる活動の場が乏しい、(3)支えになる仲間が少ない、の三つがある。
•基本テーマから「落ち込み」「空しさ」などの感情が生まれ、対人関係の特徴(例えば、傷つきやすさ)につながる。
•日常生活の「行き違い」などで「見捨てられた」などと極端に受け止めて、行動化を起こしてしまいがち。
•行動化が「周囲との軋轢」の増大、患者本人の「後悔」などをもたらし、不安・抑うつ症状や基本テーマが、いっそう悪化する。
•以上をふまえて、「典型的なうつ病との違い」や「精神科での治療の内容や限界」を理解してもらう。
•患者本人の試行錯誤・自助努力で「行動化」を減らし、基本テーマを変えていくことが治療の本質であると伝える。

 もちろんそれをするためには、認証(validation)を行うことが必ず求められます。そのうえで、患者さんも医者も病態や治療に関する共通の認識をしっかりと持っていくことが大事。この相互理解がなければ進んでいきません。短期的にはこの悪循環をターゲットに、長期的には基本のテーマをターゲットにしていきます。

 何にせよ大事なのは”変わらない治療者”だと思います。変わらない曜日で変わらない時間で変わらない態度で、ビオンの言う”もの想い”をしてくれる治療者との関わり。患者さんは時としてハリケーンの様になりますが、それでも(理想的には)大きく揺れない治療者、過去の対象とは異なる大きな容器としての治療者。その変わらないよというところを上手く患者さんが自分のものに出来れば、メンタライズ機能を改善できる、またはより長く抑うつポジションにとどまれて安々と妄想分裂ポジションに移行しない、または扁桃体の活性が健常レベルに近づく、と言えましょう。それが難しいんですけどね。。。
Comment:0  Trackback:0
2013
01.22

まんぷくの極み

 ある日のお昼ごはんは、ワケあって”キッチン千代田”のオムライスステーキ弁当でした。

PA0_0489.jpg

 ものすごく量が多いですね。。。これをお昼に食べるという発想が間違っているような???

 キッチン千代田さんはステーキがウリなのですが、他にもこのオムライスが人気。で、その両方の入っているこのお弁当はなんと2800円!高い!

 いつもは勤めている病院に学食があることを良いことに、そこで300円くらいですよ、自分のお昼なんて。。。

 で、このオムライスはこんな大きさ。結構ありますね。
 
PA0_0487.jpg

 中にはデミグラスソースを絡めたご飯がぎっしりと高密度に詰まっています。ふわっとした感じではなく、ぎゅぎゅっと入れました的な。んまい。

 で、看板メニューがステーキさんでございます。ミディアムレア?

PA0_0488.jpg

 柔らかくて、ほんのりとした甘さがあるお肉。いつも行くイオンには売っていないような質感。お弁当にしてしまうのはもったいないような気もします。ちなみにステーキ弁当はお肉のグラムでお値段が変わってくるはず、確か。

 お、なんかホタテも出てきた!

PA0_0486.jpg

 火を通しすぎずに、新鮮さを生かした味わい。これまた美味しいですね。

 目立つエビフライも衣が厚くない!

PA0_0485.jpg

 大したもんでございます。安いエビフライは十二単衣か!というくらいに衣が厚いのですが、さすがにここは違いました。夏休みに走り回る小学生の坊主みたいな。

 脱線すると、えびの天ぷらは少し衣があったほうがいいかもしれません。お塩でいただくなら例外ですが、天つゆや、あとはおそばに乗せるなら、おつゆを少し厚めの衣に吸わせてその味わいも楽しむ。これがえび天とエビフライの違い?

 そんなこんなでこのお弁当を全て平らげた結果、猛烈に眠気が襲ってきたためしばらく寝ました(漢方的に、自分は気虚ですかね)。

 どこもかしこも満足するお弁当でございましたよ。
Comment:0  Trackback:0
2013
01.18

ごつごつとした

 東海地方ではメジャーな庶民のおやつ、鬼まんじゅう。

PA0_0503.jpg

 角切りにしたさつま芋がゴロゴロっと入っております。画像は餅文総本店のものですが、最も有名なのは梅花堂というところでしょうか。数多くの和菓子屋さんが作っており、食べ比べも面白いかもしれません。

 手にとって見ましょう。

PA0_0502.jpg

 これは果たしていわゆる”まんじゅう”なのか?形態からはとてもそうは思えない。。。さつま芋だらけで、生地が生地ではなく、何かもう”つなぎ”みたいな役割に後退しています…。

 アップにしてみると?

PA0_0501.jpg

 何が何だか。妙にテカってるのだけは理解出来ます。

 割ってみるとこんな感じ。どこもかしこもイモだらけ。

PA0_0500.jpg

 食べてみるとやはり



んまい



 おまんじゅうと言うよりもさつま芋を食べているような…?

 この生地は普通のおまんじゅうと異なり、もちもちとしています。イーストやら膨張剤を使わないので、小麦粉を水で練りました的な。でも中にはおまんじゅうのような生地にしているお店もあります。好みでしょうか。

 ふと思いましたが、カロリーはすごいでしょうね。さつま芋=炭水化物、かつ申し訳なさ程度の生地=炭水化物。しかもみっちりと詰まっているので、食べごたえ有り。

 この餅文総本店さんの鬼まんじゅうは、そんなに甘くないんですよ。それがまた恐ろしいところで、甘過ぎないから2つ食べられちゃう。食べごたえ有りとか言っておきながら、2つ食べても「まだ行けるんじゃね?」と思わせてしまうこのトラップ。

 せっかくなので、食べながらネットで鬼まんじゅうについて検索したら、なんとこんなページが。

PA0_0498.jpg

『全日本鬼まんじゅう普及協議会』

 どこにでもフリークっているもんなんですね。。。ここまで鬼まんじゅう愛を具現化するとは、すごいもんです。鬼まんじゅうも幸せなのではないでしょうか。

 ちなみに、餅文総本店さんが用いている原材料がこちら。

PA0_0497.jpg

 小麦粉を差し置いて、さつま芋が原材料のトップに来ているとは…。

 さつま芋の好きな方は、おそらく鬼まんじゅうも美味しく食べられると思います。さつま芋が嫌いなら、ほぼ無理な気がします(そりゃそうだ)。これを見て「美味しそうだなー」と思ってくださったら、東海地方にお越しの際には是非ご賞味ください。”鬼まんじゅう”の他には”芋まんじゅう”とも言われます。いずれにしてもメインはさつま芋。
Comment:0  Trackback:0
2013
01.15

ゲノムと発達

Category: ★精神科生活
 最近は精神疾患のゲノム関連も勉強せねばならず、基礎知識のない自分にはかなりきつい作業。恥ずかしながら専門用語もちょっとまだ馴れてないです。。。

 ここで、読んだ日本語文献(久島周 他. 発達期精神障害-発達障害を中心に. BRAIN and NERVE. 2012; 64(2): 139-47)の内容を忘れない様に少しまとめておこうかと思って記事にしました。が、知らない分野というのはどこが重要なのかが分からないので、まとまらないですね…。

 まとめる前に。。。良いか悪いかは別として、発達障害、特に高機能自閉症/アスペルガー症候群は昨今ずいぶんと診断されている傾向にありますね。やっぱり診断は難しいと思います。定型発達と発達障害は連続したものですから、どこからどこまでが、と言いづらいところがあります。社会的な要請によって線引きが変わってしまうこともありましょう。また、青木省三先生がおっしゃるように、異なった文化を持っている異質性という視点も必要です。青木先生は光を例にとって、光は本来連続したスペクトラムだけれども、私たちの目には赤、青、黄などと異なった色として自覚されます。連続という視点と異質という視点が相容れないものではない、そして両者の視点が必要であるという、分かりやすい例えですね。

 また、増えた増えたと言うものの、目立ってきたと表現する方が適切なのかもしれません。対人能力や社会的な適応能力が問われるこのご時世、こういった人々が「障害」として浮き上がってきたことも可能性としてはあるかと思います。また、子育てが手厚くなり、早期の療育的なケアがなされるようになった結果、”軽度”の遅れにとどまる傾向になっていった、ということも高機能自閉症/アスペルガー症候群の診断増加につながっていることも推測されます。

 彼らは知的にはそれほど遅れはないので適応は良いはずなのに、対人関係や社会性の遅れがつまづきを産んでしまっております。ただ大事なのは、診断を付けることだけではないはず。滝川一廣先生のおっしゃる通り、「診断名」「障害名」のなかに子どもはいません。その子のどんな精神世界から学級内などでのトラブルやパニックが起きてくるのか、その子はどんな体験を生きているのか、それを理解する必要性がありましょう。
-----

 ここから上記文献のまとめを。

 発達障害は、脳機能の違いが認知や行動面に反映され、そのため日常生活が困難になってしまう状態。他の精神疾患よりも遺伝の影響が色濃いのですが、環境因子の関与もあり、その2つの相互作用と言われます。環境因子が生物学的なところに入り込むことの分子基盤としては遺伝子のエピジェネティックな変化というのが注目されています。

 そういった視点もさることながら、生物学的なところから攻める診断技術が出来れば、それはそれで有用。また、発達障害は相互に併存しやすいことが知られています。広汎性発達障害の多くにADHD症状が見られ、逆もまたしかり。双生児研究では、共通する遺伝因子の存在が言われていますし、DSM-5では両者の併存診断を認める方向にあります。他には発達性協調運動障害、チック障害もこれら2つの障害と共通の遺伝因子が存在することが言われています。

 発達障害の認知行動特性は成人期にも基本的には持続します。広汎性発達障害の援助は成人における就労や地域生活も含めた生活自立へと拡大しており、ADHDの半数は成人期には診断基準を満たさなくなるものの診断閾値下の特性は多く見られ、日常生活に支障がないと思われる患者さんは1割に過ぎないとも報告されています。成人になって不適応となり、精神科医の問診によって「発達障害があるんじゃないか…?」と考えられる患者さんも多いです(その全てが発達障害だとは言いませんが)。発達期精神障害と成人期精神障害との連続性を支持する知見もあり、成人期精神障害の発症前に同様の小児期精神障害が先行する(同型連続性)だけではなく、異なる発達期精神障害が先行する(異型連続性)ことも確認されています。

 ゲノムのある領域のコピー数が変化するCNVは、ゲノムの多様性を生み出します。SNPsなどの塩基置換とは異なり、さまざまなメカニズムにより生じダイナミックな変化。更に変異率も100-10000倍高いとされ、子どもの代に初めて生じるde novoの場合があります。一卵性双生児間でも異なることがあり、その個体の中においても、組織間で異なる遺伝的モザイク(個体の中で遺伝的に均一でない)を形成する可能性があると言われます。よって、稀であるものの発症への寄与が高いCNVが散発的に集まることで、疾患群を形成するのではないかと指摘されています。現に、これまで同定されたCNVから、自閉症スペクトラム障害や精神遅滞が成人期発症の統合失調症と遺伝因子を共有していることが明らかになってきており、これは統合失調症の発症前に様々な発達障害が前駆するという臨床研究と一致し、統合失調症の病因・病態に神経発達異常を想定する”神経発達障害仮説”を支持する所見です。ただ、同一のCNVがこの様な多様な表現系を生み出す多面発現的効果(pleiotropic effect)がどのようなメカニズムで起こるかは不明で、ほかの遺伝子変異や環境的な影響が推定されているにとどまっていることも事実です。

 これまでの研究では、同定できるCNVは大規模なものに限られていました。現在は高解像度の解析が可能になっており、比較的小さなCNVやそれより小さなINDELsの同定も盛んになっています。技術革新により細部を知ることができ始めており、精神障害の遺伝的な基盤をより詳細に明らかにする研究がより重要になってくると思われます。ただしこういったCNVなどは浸透率の問題もあります。CNVを持っていても発症につながらない例も数多くありましょう。これを解析することでどういった養育環境が保護的に働くのかを見ることができます。

 画像研究については、自閉症では脳発達のスピードが健常児と比較して変化していることが言われています。脳体積が小児期早期では健常児よりも大きく、後期で正常範囲内に戻ります。扁桃体の体積も同様のパターンをとる傾向にあるようです。ADHDでは脳皮質の厚みの軌跡が遅延するとの報告があり、厚みのピークを迎えるのが3歳ほど遅れるとのこと。COS(Child Onset Schizophrenia)では側脳室の拡大、大脳灰白質体積の減少、海馬・扁桃体体積の減少、基底核体積の増加などが青年期から進行することが示唆されています。
-----

 こんなまとめでした。とある文献(Craddock N, et al. The Kraepelinian dichotomy - going, going... but still not gone. Br J Psychiatry. 2010; 196(2):92-5.)には、生物学的な基盤を考慮した精神疾患定義の再編成の試みが述べられています。1つの図が掲載されており、以下に掲載。将来的にはやはりこういった方向性になっていくんでしょうね。この図を見るたびに、自分はアンリ・エーを思い浮かべてしまいます。

re-definition.jpg
(クリックで拡大)

 ただ、発達障害に限らず精神疾患の診断というのはしっかりとケアに結び付けて行わなければいけません。前述のように発症の基礎となる遺伝子変異を有していても発症しないことも多いでしょうし、逆もまたしかりと考えられます。特に軽度発達障害はコンテイナーとしての社会のキャパシティによって診断されるかされないかということもあるでしょうから、遺伝子変異があるからあなた発達障害よ、ないから違うよということだけでは、不必要なレッテルを貼られる・必要なケアを受けられないという人々も出てくるはずです。そういった事態に陥らない様にせねばなりません。

 精神発達というのは正規分布しますし、その平均水準を大きく下回ると発達障害とされてしまいます。それに加えて、発達を遅らせるような非特異的な負荷があれば、関係の発達に遅れが出やすくなります。今まで見つかっている様々な所見というのは、遺伝子的なものも含め1つが多大な影響を持つものではなく、あくまで非特異的なものなんじゃないかと思います(その所見を持っていても発達障害にならない子も多いわけですし)。非特異的な負荷がいくつか重なって、関係性を築くことの足をずるずると引っ張ってしまうんじゃと考えています。発達そのものが正規分布するということも踏まえると、自閉症の中でスペクトラムと言うのではなく、大きい視野で”発達のスペクトラム”とすべきものなのではないでしょうか。精神遅滞だって同じ事ですよね。

かけっこだって、よーいドンで走ったら足の速い子もいれば遅い子もいます。足におもりが付いていればそれだけ走るのも遅くなりましょう。たくさんのおもりならより遅くなるでしょう。それと同じ事と思います。精神発達だってよーいドンで生まれると発達の速い子もいれば遅い子も。そして遺伝子やら何やらが、おもりと言えるでしょう。大したことのないおもりもあれば、単独でクリティカルなほどの大きさのおもりもあります。精神も発達することである以上、ばらつきはあります。自閉症や高機能発達障害とラベリングするなとは言いませんが、一所懸命に走っている、発達し続けているという子どもの面をしっかりと見つめなければ、それは弊害しか生まないような気がします。

 最後にまた滝川先生の言葉を引いておきます。


『まず「精神遅滞」(知的障害)とか「自閉症」とか、診断名(障害名)は必要ないのですよ、ほんとうは。その子が、こころのはたらきのうち、どんなところがどう遅れているのか、なにが不得手でなにが得手で、いまどういうところでつまづいており、どんな配慮をしてあげればよいのか、そういう具体的・個別的なことが必要なのですね。診断名とは抽象化で、そこにはその子はいないのです。』
Comment:0  Trackback:0
2013
01.12

心の生ぶ毛をそっと包む

Category: ★精神科生活
 分裂病、今で言う統合失調症はまだ原因が分かっていない疾患です。現代の脳科学から色々と仮説は出されていますが、それでも決定的なものは出現せず。。。これには統合失調症がその実のところ”統合失調症候群”とも言えるべき括りであることもありましょうし、また本疾患がコントロール失調によるものという考え方があるためと思われます。

 いわゆる器質性精神病というのは脳の粗大な変化によって粗大な結果がもたらされるものと表現できます。それに対応させると、統合失調症は僅かな変化によって大きな結果が出てしまうものと推測されます。よって、器質性の変化があったとしても、それは二次的なものと言えます。脳に限らずシステム一般においては、問題となる中心部分よりも失調は末梢・辺縁部分に出現します。ネオ・ジャクソニズムを唱えたアンリ・エーの器質力動論はこれと同様なものですね。微小な変化が中心部に生じ、それが末梢部で大きな事態となって顔を出すというのが統合失調症であるとも言えます。そういった意味では、最近大きくスポットライトの当たっている前頭葉もそうですが、それとクロストークしている小脳というのも中井久夫先生の仰る通り注目されて良いかもしれません(小脳は大脳のモニタリング機能を有します)。

 さて、そんな統合失調症には人間学的・時間学的なアプローチというものが精神病理学者の中からなされました。今ではこの様な発想はやや斜陽気味ではありますが、人間として患者さんに接するには必要なものと思われます。

 木村敏先生のante festum(アンテ・フェストゥム)は、統合失調症者に典型的に見られる時間性。患者さんは相手と同じ瞬間瞬間を一緒に生きることが苦手と言われます。木村先生の挙げる例では以下のものがあります。

「あのとき東京へ行くべきだったのに、運命を間違えてから、母の意思に従って地元にとどまったから、自分の意志がなくなった」「私は母の前へ前へと行かねばならなかったのに、あの時後ろになってしまったから、それからずっと母が私の体の中へ入ってきて私に命令する」

 これは、メランコリー親和型うつ病者に最も良く見られるpost festum(ポスト・フェストゥム)とどう違うのでしょうか?同じ後悔ではないか?と思うかもしれませんが、ante festumでは過去を振り返って後悔をするわけではありません。過去で未来を先取り間違えたために、今そして未来も誤って続いてしまう、ということになります。

 笠原嘉先生はこのante festumを『取り返しのつかぬ過去を振り返ってする後悔ではなく、”妨げられることなく事物のもとに逗留することの不可能”(ビンスワンガー)によって経験の基盤から切り離されたものが空虚な超越的未来を先取りし、”前夜祭的”なおののきを生きる時間である』と解説しています。

 木村先生は以下のようにも言っています。『統合失調症の人が世界に対して、世界を構成している他者たちに対して「自己が自己である」ことを確保しようとしても、その人と世界あるいは他者との出会いは、最初から、おそらく生来的に問題をはらんでいます。彼は、健常者にとっては想像もつかないような「転機/危機」の状態に、つねに曝されていると言ってよいでしょう。だから統合失調症の人は、つねに事新しく自己になり続けなくてはならないのです。だからそのつどの他者に対して、つねに先手先手で相手の機先を制するように行動する必要があるのです』

 ただし、このfestumはpostがうつ病でanteが統合失調症、という単純なものではありません。笠原先生の解説では、木村先生の言説を一部そのまま取り入れて『人間にとって形成可能な臨床的精神症状のほとんどすべては、この両種の基本構造のいずれのうえにも等しく形成されるものであり、したがって個別的病像のみから、それがante系かpost系かを判断することは、原理的に不可能である。だから病人と人間学的な面接と治療にとって、いわば”人間学的診断”とも言えるような洞察が要請される場面において個々の臨床症状の背後にある存在構造の方向性に向かって深い現象学的直感の目を向けることによって、そのつどの病像がこの両種の基本範疇のいずれに属するものかを明確に区別しなくてはないらない』と述べています。

 もう一人、精神医学の泰斗である中井久夫先生は、統合失調症患者さんの機制を”微分回路的認知”と呼びます。統合失調症に親和的な人は、微かな徴候を読む能力が傑出しているというのです。話は大きくなりますが、中井先生はこのことを人類の歴史から考証しています。普通に考えれば、統合失調症になりやすい人は淘汰されてしまい、残らないのではないか?なぜ今日も世界中に普遍的に存在するのか?

 おそらく、統合失調症は人間にとって必要不可欠な機能が失調を起こしたのではないか。微分的な徴候解読能力は重要な能力です。狩猟の時代であれば、この微かな変化を鋭敏に嗅ぎ取ることで生き延びることができたことでしょう。もちろん、それに長けている方が良いと言えます。子孫を残す相手を獲得するためにも有用でしょう。相手がどう思っているかというのも、微かな変化を見抜くことが求められます。赤ん坊にとって、母親の表情や態度から今甘えても良いかどうか、そういったことにも関与します。

 中井先生は、統合失調症の患者さんは自身が有している微分的認知の能力が社会の要請と上手くかみ合わなかったために、現実認識の失調をきたした人々だと述べています。ごく僅かな変化を先取りしてしまい、それ故にちょっとしたノイズにも大きく振り回されてしまう。『もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前する如く恐怖し憧憬する』こう表現されています。

 以上お話した、木村先生のante festum、中井先生の微分回路的認知。そして笠原先生は統合失調症を”出立の病”と表現していますが、これら3つの語句は共通したものがあると思います。自己を自己たらしめようと、僅かな徴候を捉えて思考を先取りしていく。過去という経験に安住できず生き急ごうとするような、そしてその都度の変化に恐れ怯えてしまう、そんな統合失調症の哀しさを言い表しているのかもしれません。

 統合失調症の発症の多くは青年期です。いきなり幻覚妄想、というわけではなく、じりじりと進む病態。上記の3つの語句を念頭に置いて、少し典型的な経過を見てみたいと思います。この経過について詳しく知りたい方は、クラウス・コンラートの書いた”分裂病のはじまり”という本や、日本人では中井久夫先生の本を是非読んでみてください。

 青年期は進学や恋愛、就職など、”出立”に関する出来事が非常に多い時期です。こういったことは自らの存在について考えるきっかけにもなります。誰しも青年期には哲学的になるものですね。自らの未来に思いを寄せ、無理や焦りを感じる。それが特に”ante festum”や”微分回路的認知”を有する人々にとってどれだけ恐怖や焦燥を掻き立てられるか。人生・存在が左右されかねないと感じるこの状況では、かなりの無理な努力を強いられます。ピーンとずっと張り詰めたこの努力はその人の余裕を失わせます。ゆとりがなくなり常に無いものかに追い立てられるような感覚に入っていきます。空回りに空回りを続け、無理が堆積していきます。

 これがずっと続けば、失調の方向に足を踏み入れることになります。多くの自律神経の乱れが起こり、不眠にもつながります。眠りというのは非常に大事なことで、不眠というのは身体からの警報と考えましょう。ここでしっかり休めれば事態は収束に向かっていくかもしれません。

 無理が積み重なり焦慮となり、そして不眠が解消されずに事態が展開していくと”臨界期”に入ります(中井久夫先生の用語)。一気に失調の方へ崩れていく、そんな時期。不眠は不眠でも超覚醒と呼ばれる状態に入っていき、様々な感覚が鋭くなってきます。その人の体験から”偶然”が消えていき、何らかの危険な意味を持って迫り来ることとなります。それぞれの物事がそれぞれの危険な意味を持ち、それが頭のなかでざわめく。意味にふりまわされ、また別の意味にふりまわされる。傍から見ると支離滅裂な振る舞いとなり、錯乱状態に。これが統合失調症の急性期となります。いかに恐怖に満ち満ちているか。私たちの統合された世界の認識・意味が音を立てて崩れていってしまいます。

 統合失調症の急性期というのは断片的で危険な意味が頭のなかでせめぎあい、患者さんは混乱に翻弄されていく時期です。この危機的状態にどのように対処するか。それが”幻覚”であり”妄想”でもあります。陽性症状というのは、患者さんが現状を何とかしようと奮闘した産物と考えられましょう。どこかでざわめきを安定させなければ、なんとか収拾を付けなければ、その努力の果てが幻覚と妄想。声になってくれれば、頭の中の恐ろしいざわめきではなく外からのものとして意味付けできます。

 人間は何かと意味や原因を求めます。それが陽性症状に向かっていくと考えられます。また、意味と原因を希求せず、それを放棄したり断念したりすることが、陰性症状に向かうと言えます。

 以上が、人間学的な精神病理に基づく統合失調症のとらえ方の一例でした。ゲノムも必要ですが、この様に人間学的な見方をすることで、患者さんのこころに近づけるのではないかと思います。机上ばかりになってしまってはいけませんが。
Comment:2  Trackback:0
2013
01.08

養育とエピジェネティクス

Category: ★精神科生活
 精神疾患の発症には色んな原因が重なっています。精神科では場合によって親の養育態度や虐待の有無など、昔のことを聞きますが、これにはどういう意味があるのか。精神医学を嫌う人は、こういうところを毛嫌いしている部分も多いかと思います。「意味ないんじゃないの?」「昔の傷を掘り返すだけじゃないの?」「こじつけじゃないの?」という意見もありますね。

 養育については、精神分析と愛着理論が最近は仲良くなって(?)、フォナギー先生のいうメンタライゼーション(mentalization)という考え方が分析から出てきています。でもそれだってあくまでフォナギーの考えにすぎないじゃないか、と言われてしまうと「ふーむ…」となってしまう。いちおう、フォナギー先生は著書の中で実証的な視点との突き合わせを行っていますが。さかのぼって言えば良く自分が引っ張りだす抑うつポジションとかだってクラインのアイディアであってそれ以上のものではないだろう、という声もやっぱり聞こえてきてしまう。

 やり玉に挙げられるのはラカンですね、間違いなく。彼はちょっと確かに、そんな気が…。以前、笠原嘉先生の『精神科と私』という本の出版記念会で成田善弘先生が少しお話をされましたが、その中に「ラカンには臨床的なにおいを感じない」というようなことを述べておられました。成田先生もあんまり読まないそうです、ラカンは。自分は鏡像段階くらいで知識が止まっておりまして、恥ずかしながら。

 しかし最近は流行りの分子生物学から、遺伝子と環境との関係性が指摘されており、これが今まで精神分析のやっていたことは空論ではなかったかもしれないんだよということを示しつつあるようです。なんと。

 その1つがエピジェネティクス。エピジェネティックな変化とは、遺伝子の塩基配列の変化を伴わない後天的で可逆的な変化のこと、らしいです。主なものにはDNAのメチル化とヒストンのアセチル化があり、転写を抑制します。どちらもなんと人生初期での環境要因の影響を受けます。この機構が、養育態度などの人生早期の環境因が成長後の感情や行動に与える影響というものを説明してくれるものだと注目されています。

 人間とマウスやラットを同一に語ることはできませんが、後者の実験レベルでは養育環境の違いで海馬のグルココルチコイド受容体の発現、HPA系のフィードバックの機能、BDNFの発現といったものが影響を受けます。我々人間では、死後脳研究から幼児期に虐待を受けた人はグルココルチコイド受容体のプロモーター領域のメチル化が見られており、グルココルチコイド受容体の発現低下と関連することが示されています。

 そういったことから、ヒストン脱アセチル化酵素(HDAC)阻害薬が治療薬剤として期待されていますし、精神療法がどのくらいエピジェネティクスと関連するかの研究も必要でしょうし(後天的で可逆的っていうくらいですから)、境界性パーソナリティ障害の生物学的な病因としてもこの視点は大事にされ始めています。

 個人的にはこういう遺伝子レベルのことは門外漢であまり好きではないのですが、精神科の治療薬開発もちょっと頭打ちになってきている面があるため、この分野にどんどん進んでいくのは必然と言えるのでしょう。でも分子生物学で突き進んでいった結果、意外にも精神分析との共通点が見つかるなんて、ちょっと素敵。


☆主要な参考文献
Labonté B, et al. Genome-wide epigenetic regulation by early-life trauma. Arch Gen Psychiatry. 2012; 69:722.
Wei Q, et al. Early-life forebrain glucocorticoid receptor overexpression increases anxiety behavior and cocaine sensitization. Biol Psychiatry. 2012; 71:224.
Stafford JM, et al. Increasing histone acetylation in the hippocampus-infralimbic network enhances fear extinction. Biol Psychiatry 2012; 72:25.
Comment:1  Trackback:0
2013
01.05

らしさ

Category: ★精神科生活
 新年、1月1日は外勤先の当直だったわけですが、そこの食事も新年らしいものとなりました。

 病院の当直では、ご飯はどうなっているのか?ということを思う方々もいらっしゃるかもしれません。以前にもどこかの記事で書きましたが、基本的には患者さんと同じものを食べます。”検食”といって、この食事が患者さんの食事としてふさわしいか?という官能検査のような。硬さとか味とか見栄えとか、そういうのをチェックします。

 当然、節目節目にはそれにふさわしいご飯が出ます。去年(というか一昨年から去年にかけて?)は12/31-1/1が当直でして、お昼に年越しそばが出ました。今年は1/1-1/2が当直だったので、何となく想像できますね。

PA0_0481.jpg

 お赤飯に、おせちが出ました!

 おせちをアップ。

PA0_0480.jpg

 伊達巻ではなく玉子焼きというのが何とも。栗きんとん?と思って食べたものはさつまいものきんとんでございました。。。



 やっぱり予算が、ね。。。



 地味にお赤飯が美味しかった。
Comment:0  Trackback:0
2013
01.01

シブい年越し

 皆様、明けましておめでとうございます。へび年ですよ、へび年。

 今年はどんな年になるでしょうか?自分は2月に引っ越し、4月から勤務先が変わるということで、色々と序盤は忙しくなりそうです。

 昨日、と言っても去年の話になるのが元日の不思議さでございます。その昨日はいつもと変わらない暮らしぶりでした。ちょっと病院に行って患者さんの様子を見て、まぁせっかく大晦日だからと、混雑しているイオンに向かって雰囲気を感じてまいりました。

 家に帰ってからはお布団の中で本を読むという姿勢。テレビも年越しと言うだけあって特番が多い。結局紅白は観ることなく、BSで『吉田類の年またぎ酒場放浪記』をじっくり鑑賞し年を越しておりました。。。この人はいっつも美味しそうにお酒飲んでますね。出てくる一品料理も大衆的でかつその土地に根差したもので、我ら庶民目線なところが飽きさせない。

 年が変わったら今度はNHKの『年の初めはさだまさし』を眺めながら就寝。

 初夢?いえいえ、熟睡で夢なんて記憶にございません。そういう時って、今夜(1/1-1/2)の夢が初夢ってことで良いんでしょうかね。

 大晦日くらい夜更かししても、と思いたかったんですが、何と本日は新年最初の当直でございまして、現在は外勤先の病院におります。だから早起きしなきゃいけなかったんですよね。。。ちなみにさっきYahooのトップページでおみくじをやっていたのでクリックしたら、運勢が



rakkyou.jpg



 とか言う、もうなんかワケわからん運勢でした。何?らっ凶て…。

 本日の通勤では、いつも混んでるはずの駅も閑散という言葉がこれほどぴったりくるのかというほどに人がいない。電車も楽々座れちゃいました。平生は満員で押されておるのに。。。嬉しいやら悲しいやら。

 でも新年のこんな朝早く(AM7:00)から電車に乗る人たちはどことなく「俺たち一緒だよな」的な空気でつながっています。

 1/2と1/3は特に仕事がなく(珍しい!!!)、逆に何をしたら良いのか??1/2は当直帰りに病院によって、外泊から帰ってくるであろう患者さんのところに行って様子をうかがうというのは決めているのですが、それ以降どうしようかな。。。ふらふらと近場を徘徊しようかしらね。でも寒いしね、こたつの中に沈んでおくのもまたよろし。
Comment:4  Trackback:0
back-to-top