2018
06.12

変わらない、を意識しすぎると?

 治療者は安定していなければならない、とはよく言われます。患者さんはゆらゆらと不安定なので、安定して "変わらない" というのをおすそ分けするような、それが大事。このことはどのテキストにも書かれてあることですが、「安定していなくては!」と思いすぎるのも、診察室をぎこちなくさせるものかもしれません。

 自分もレジデントの時はギアスに命じられていたかのように「治療者が不安定ではいけない、安定していなくては…」と思っていました。今でもちょっとその傾向がありますが、ガチガチに変わらない、なんていうのはどだい無理な話だなぁとも感じております。

 ひとつのエピソードをご紹介。自分がインフルエンザになって外来を急遽休まなくてはならなかったことがあります。当然その日の予約患者さんは他の先生が診てくれたのですが、後日復活して外来で「前回はごめんなさいね」と謝ったところ

患者さん「いえ、先生も僕と同じ人間なんだなって思いました」

 と返されまして。どういうこと?と思い詳しく聞いたところ

患者さん「先生っていっつも変わらなくて、完璧みたいに見えてました」
自分「完璧ですか」
患者さん「はい。でもインフルエンザで休まれて、あぁ人間なんだなって」
自分「それでちょっとホッとしたところもありました?」
患者さん「はい、実は (笑)。でも僕も完璧でいてほしいと思っていたかもなぁと何か後で」
自分「私に完璧でいてほしいと思っていたことに気づいた」
患者さん「そうですね」
自分「それが私のインフルエンザで見事に崩れましたけど、それで怖くなるのではなく、同じ人間だと感じてホッとした」
患者さん「そうなんです」
自分「うーん、なるほど (笑)」

 という流れ。これには、若い頃 (?) の自分は本当に「なるほどな~」と思ったのであります。これで患者さんがぐぐっと改善したというのならさらにすごいのですが、そういうことはなかったのでした。でも何らかの転回にはなったのではないか?と自分では感じています。そしてさらに「おやおや?」と思ったのが、患者さんの中にはインフルエンザで休んだことを「もうどうしようかと思った」と話すかたもいたこと。これは精神分析的に色々言えそうですが、まだ患者さんの中で "準備" が出来ていなかったとも表現できます。治療者の不在に対してどう患者さんが反応するかというのは、治療の進展にも関わってくるでしょう。もちろん、個々の患者さんと治療者とのあいだで起こっているという認識も必要で、すべてを患者さんの内的世界として考えてはなりません。

 患者さんは苦しんでいる。つらさや不安を自分でどうにも処理できない。無力というのはイイスギかもしれませんが、自分ではどうにもこうにもなりません。そのため、処理してくれる治療者に投げ入れ、治療者はそれをかかえます。そして、患者さんがかかえられそうなものに砕いて返します。最初のうちは、治療者は絶対・完璧であることを求められます。治療者が移ろいやすく不安定であれば、患者さんの不安をかかえられません。治療者もある程度は完璧であろうとしますし、その時期はそのような姿勢が大切でしょう。言ってしまえばその庇護の中で、患者さんは "ゆとり" を思い出し、一歩を踏み出してみようと思えるようになります。その過程で、治療者が実は絶対ではないと感じ取ることが圧倒的に重要です。それは、患者さんがかかえられそうな形だと思って返してみたところ実はそうではなかったという失敗によります。この失敗ばかりだと患者さんはとてつもない恐怖に苛まれることでしょう。成功とちょっとした失敗の配分。そのような成功と失敗を繰り返した "ほどよさ" の中で、患者さんは治療者との世界から広がりを見せていきます。

 治療者がいきなり不在になる。そうなると、患者さんの反応は治療のあいだによってそれぞれ変わってくるのというのは理解できることだなと思います。

 小倉清先生は以下のようにお話しし、絶対であってほしいという患者さんの願望が重く感じる時の対処法などもご提示しています。


人は誰でも不安定なんですよね。安定している人っていうのは死んだ人なんですね。(中略) 患者さんは、治療者の不安定なところを突いてくることがあると思うのね。ほとんど意識的にかな、反射的にかしら、治療者の持っている弱点というのか、柔らかい点というのか、そこを突いてくるものなんです。なぜ、そういうことをするのか。それはいろいろあるかもしれませんけれども、一つにはやっぱり患者さんは治療者に絶対的であるものを求めるんだと思うんです。治療者である限りは不安定であっては困る、しっかりしてくれ、どの場合でも動じないで堂々としていて欲しい、という願望、本来は自分自身がそうありたいというものが治療者のほうに投げかけられているのかもしれませんけれどもね。それは年中起こることだと思うんですね。つまり患者のほうから、治療者がオムニポテントであることを要求してくることもあるわけです。ぞういう患者さんからの挑戦に対して、治療者はだいたい耐えなくてはダメなんだけれども、なかなか耐え難く思うときも、それはあるわけですよ。そういうときは同僚なり、上の先生なりにお話をするというのがいいんじゃないですかね。お友達でもいいと思いますし、家族であってもいいのかもしれません。 (治療者としてのあり方をめぐって. チーム医療. 1997)


 対処法は「こんなのでいいの?」と思うかもしれませんが、不安を誰かに投げ入れてかかえてもらう、そしてこちらがかかえられる状態に変形して返してもらう、ということを表しているでしょう。人と人とのあいだは、そのような "投げ入れる-かかえる" というつながりでもあるのだと思います。

 完璧であろうとするのは、不安定で崩れてしまいそうな段階に対しては必要かもしれません。でも治療を続けていく中でいつまでも完璧であっては、患者さんはその閉じた世界から離れることはできなくなります。治療的になるには "ほどよさ" が必要であり、その中の一体化していない "ズレ" こそが、患者さんが進んでいくための大切な要素であると思います。
Comment:3  Trackback:0
2018
06.01

過剰な医療の背景とその対策

 今回は、今問題となっている過剰な検査や治療がなぜ生まれるのか、そしてどうすれば解決に向かうのかという論文を軽く紹介します。

Hoffman JR, Kanzaria HK. Intolerance of error and culture of blame drive medical excess. BMJ. 2014 Oct 14;349:g5702. PMID: 25315302

 2014年のBMJに載っている短いもので、これは一度読んでみると良いのではないでしょうか。ここではちょっとまとめ的な訳を。

--------------------------

 人間は過ちを犯すものです。意思決定のプロセスで、間違いは避けられません。間違いによる害を防ぐ最善の策は、間違いやそのニアミスを探して同定し、それらをとらえ軽減するシステムをつくることです。しかしながら、医療の分野において間違いは恥と考えられ、人々から責任を追求されます。そのため、医師は間違いの否定や隠蔽を行なってしまいます。これは間違いを防ぐには逆効果なのですが、はるか昔から医学に根ざしてきたものです。現代医学は完全なる科学に基づいているという自負があり、このことが、いかなる間違い、そしてどんな有害な結果をも受け入れがたい失敗だととらえてしまいます。

 この考えは一般の人々にも浸透してしまっています。完璧な結果を求め、病気になることや死ぬことは避けられないはずなのに受け入れられなくなっています。医師はどんな間違いにも個人的な責任を負うように指導されており、間違ってしまうことは理想には程遠い結果だと言われてきました。そのため、結果が悪ければプロセスに問題があると考えられてしまいます。患者さんが思わしくない結果になった時、医師は罪悪感と恥を抱きます。完全であろうとし、確実性を極端に求めようとします。しかし、いずれも達成可能なものではありません。社会は「問題は全てテクノロジーが解決できる」などの幻想を抱き、究極的には「死も自由意志による」とさえ思い込んでしまいます。

 間違いを起こした際の不利益を恐れるあまり、健全な医療から逸脱することになります。これを "守りの医学 (defensive medicine)" と言いますが、それが過剰な医療の最たる原因です。訴訟や見逃しなどを恐れ、過剰な検査や治療などがなされてしまうのです。現在の法律では怠慢が何よりも罰せられるため、訴訟リスクを下げるために過剰な医療が生まれてしまいます。訴訟リスクが低くとも医療過誤への恐怖は軽くならないかもしれませんが、だからと言って現在のシステムを変更する必要がないということではありません。今は責任追及が著しくなってしまっており、守りの医学から来る過剰な医療による財政負担も大きいのです。

 染み付いてしまった医師の行動を変えるのはたやすいことではありません。しかし、過剰な医療を制限せねばならないのと同時に、公での晒し上げを挫き、診断が間違っていたり考えられる治療を控えたりすることによる訴訟リスクをも軽減せねばなりません。とは言え、システムそれ自体の力ではうまくいかず、別の方策が必要です。現在行なわれてきているものがイギリスの "do not do" リストやアメリカの "Choosing Wisely" キャンペーンなどであり、オーストラリアでも同様のことがなされています。これらは不確実なことへの不耐性を扱っているわけではありませんが、完璧を求める文化から生じた過剰な医療を減らす第一歩となります。さらに、JAMAの "Less is More" セクションやBMJの "Too Much Medicine" キャンペーンなど、医学ジャーナルも努力しており、最近始まったpreventing overdiagnosis conferenceなどもあります。もう一つのアプローチは、意思決定のプロセスに患者さんに参加してもらうことです。SDM (shared decision making) の主な目的は患者さんの価値観や好みを反映させることですが、同時にリスクとベネフィットを考える不確実性を患者さんに理解してもらうことにもつながります。

 しかし、私たちはこれ以上のことをする必要があり、医療やより広い分野においても変えていかねばなりません。失敗や間違いが避けられないということにオープンになってもらい、そして専門家や多くの人々に "許容しうる失敗" を考えてもらう必要があります。医師は長きに渡って多くの人々から敬意を払われてきましたが、私たちは全能性への欲求を捨て去らねばなりません。しかし、社会が与えてくれる道徳的な権威を引き受け、それを以下のために用いねばならないでしょう。人体を無傷にしておくことは月に行くよりもはるかに難しいということ、適切な医学的情報から外れたものや医療者の理解できない情報は利益ではなく害になるであろうこと、疾患の早期発見は常に患者さん指向のより良い結果につながるとは限らないこと、そして検査や治療は多ければ多いほど良いとは限らないということです。

--------------------------

 以上になります。私たちは "分からない" を極度に恐れます。そして、ついつい検査を余分にしてしまったり、不必要な治療をしてしまったり。それが患者さんにとって不利益をもたらし、医療経済も圧迫します。医者だけにその非を着せるのはお門違いでして、患者さん側にも ”分からない” を受け止めてもらう必要があります。医療は不確実なのだ、ということです。そこに耐える力が必要。メディアは医療の敵なのかと思うほどに過激な報道を繰り返しますし、それが国民の不信感を煽ります。「何かあったらただじゃおかない」となるわけです。そうならないためにもメディアには心を入れ替えてもらいたいですし、国にも頑張ってもらいたいところです。医者側も不確実性を表明するのは大事ですが、しっぱなしはご法度です。"分からない" 渦中にいる患者さんの不安をも抱擁することが求められましょう。そして、日本は皆保険制度が (かろうじて) あるため検査や治療の自己負担が少なくなっていますね。そのために患者さん側も「検査して」「せっかくだから薬をちょうだい」となってしまいます。医者側もそういう傾向にあるでしょう。それによって国の医療費が大きく膨れ上がることにもなるため、やはりそこへの理解も必要でございます。

 不確実性に耐えられない好例は"風邪に抗菌薬" なんてものでして、「もし抗菌薬を出さなくて細菌感染を見逃して悪化したらどうするんだ!」という追及や、医者側も「念のため…」という思い、そんなことで処方されてしまいます。でも予防については、たった1人の深刻な細菌合併症を防ぐには4000人以上に投与しなければなりません (BMJ. 2007 Nov 10;335(7627):982. PMID: 17947744)。必要のある時以外に抗菌薬は投与すべきではなく、かえって腸内細菌叢を乱してしまい、患者さんへの不利益になります。この 風邪に抗菌薬" はようやく国が重い腰を上げてくれた感がありますね。

 早期発見は患者さん指向のより良い結果にならないことがある、と上記にありました。「早期発見なら別に良いじゃないか」と思うかもしれません。しかし、子どもの甲状腺がんを例に挙げると、そのほとんどはおとなしいものです。日本全国の健康な若年者にスクリーニングと称して検査をすると、甲状腺がんって意外と見つかるのですよ。「たくさんの子どもに検査をして早めに見つけることの何が悪いの? おとなしいものなら経過をしっかり追えば良いじゃない?」と考えるかもしれませんが、やはり "がん" があるというのは本人とご家族にとって非常に苦しく、不安を増幅させます。将来についても何かと考えてしまいますし、親御さんならいろいろと思うところがあるでしょう。医者側も「何かあったら…」と考えますし、また不安に耐えかねたご家族からも「手術してください」と言われることがあります。そして、甲状腺がんもほとんどが無害ですが、遠隔転移をきたすようなものもごく一部にあるため放置できず、さまざまな不安なども相まって結局は無害なものも含めて手術、過剰な治療となってしまいます。まったく患者さん指向ではなく (倫理的に問題あり)、そこは分かってもらわねばなりません (大阪大学の研究チームの報告を見てみましょう)。

 精神科における身体拘束も、不確実性への恐れからなされる部分があります。拘束をやめるとインシデントが増える (アクシデントは増えないようですが) ため、拘束を減らす、究極的にはゼロを目指すのであれば、そのインシデントを許容するシステムが不可欠です。それは病院内にも必要ですし、患者さんのご家族にも必要です。拘束しなかった患者さんが転倒する、ということひとつをとっても、ご家族の中には病院に対し猛抗議する、看護師さんに対してこころない言葉を浴びせる、というかたもいます。しかし、拘束をしないということは、こういう事が起こりえると理解してもらわねばなりません。もちろん拘束することによる身体的なリスクも無視できないのですが。

 "分からない" に耐えること、そして医療には過剰があり、ともすると利益にならないということ。医者も、皆さんも、メディアも、弁護士さんも、裁判官も、国も、みんながその重要さに気付いてほしいところでございます。
Comment:0  Trackback:0
2018
05.18

臨床のワンフレーズ(26):それが王道ですよ

 患者さんは回復過程が長く感じます。そして、本当に自分が良くなっているのか、これからどういう形に進んでいくのか、というのはとても心配になるもの。私たち医療者は、先を照らしておくことを忘れてはいけません。足元しか見えないとまさに五里霧中、暗中模索。でも、先の道や目標が見えるとホッとしますね。これを常に意識することが診療では大事になると思います。

 休職をしながらうつ病を治療している患者さん。極期を抜けて日常生活に少し安らげるようになってきました。しかし「楽しいことなら色々とできるようになったんですけど…」と。


患者さん「書類を見たり仕事のメールを見たりするのはまだちょっと…」
自分「仕事を思い出してちょっと…ていう感じでしょうか」
患者さん「はい。何だか好きなことばかりして怠けてるみたいで…」
自分「今の状況ならそう思うのも無理はないかもしれんですね」
患者さん「はい…。このままじゃなぁと思ってるんですが」
自分「そうでしたか。実のところ、好きなことからできるようになってくるっていうのは、回復する順番としてとても自然なんですよ」
患者さん「そうですか?」
自分「嫌なことから真っ先にやる気が出るなんてことはないでしょう。○○さんがドMなら話は別ですけど」
患者さん「いやいや。でも確かにそうですね」
自分「楽しめることを楽しめるようになったことが大事で、まずはしっかりとそれを味わいましょう。それが出来るようになると、気持ちも仕事に向かい始めますでね」
患者さん「分かりました」
自分「ここにいらっしゃる前は、楽しめるはずのことも楽しめなかったですもんね」
患者さん「そうですね、言われてみれば、ちょっとドライブっていう気にもなれませんでした」
自分「こころと身体が楽しめるっていうのが回復の基本ですから、まさに"王道"なんです。○○さんは王道を歩いとるで、とってもいい感じです。だからめちゃくちゃ楽しんでください」


 自分は外来を重くしないように、少し軽くしようと意識しています。もちろん患者さんやその時々の状況によりますが、ベースは楽観的な雰囲気が漂うようにしています。眉間にしわを寄せない、ちょっとオーバーに驚く、などもしますし、診察室に飲み物(自分用ですよ)を持っていくようにもしています。もちろん診察中は飲みませんが、置いておくとちょっとガチガチの真面目感が和らぎます、たぶん。今回はまず「○○さんがドMなら話は別ですけど」と、ちょっといたずらっぽく笑いながら発言しています。意外な言葉で患者さんも少し笑って、姿勢が軽くなります。繰り返しますが、この言葉を使うかどうかは患者さんや状況によります。これを間違うとアカンことになってしまいます。ふと思いましたが、診察って即興劇のようなところってありますね。

 そして、受診に至る前の苦しい時との比較を促します。最後に "王道" という言葉。「アンタが歩いとるんは王道やでぇ。安心せぇよ」というメッセージとなります。この "王道" なんて言葉は普通出てこないので、患者さんに強く印象付けられます。患者さんってこっちが思うよりも診察室では緊張していて、診察が終わって外に出たら「あれ、何話したっけ」となることも。なので、印象的な言葉を使ったり、緊張感そのものを和らげるようにこころがけたり、そんなことに医療者は取り組みます。「王道かぁ。よっしゃあ、大丈夫そうや」と思ってくれれば良いですねぇ。

 日々の外来で何が大事かというと、診察が終わった後に患者さんが「よし、これからもやっていこう」と思ってくれることなのだと思います。診察室に入る前は下を向いていた顔が、出る頃には上を向いているようになっている、これが一般的な日常臨床での理想かしら (難しいですが)。細かいところはこちらから指摘することもありますが、それも「これダメや。こっちにしい」とは言わずに基本的には「アンタのやっとることでO.K.や! そしてな、これをな、こうするともっと良いかもしれんで!」という感じの表現にします。それの積み重ねが回復に向かうのだろうなぁと考えております。
Comment:0  Trackback:0
2018
05.12

4 mgを狙ってるやろ

 大塚製薬の新薬であるブレクスピプラゾール (レキサルティ®) が発売になりました。自分はまだ処方したことがないですけれども。これは日本では最大2 mgの投与となっており、アメリカさんの半分なのです。彼の国では4 mgまで使用可能でして、その半分で大丈夫なのかしらとも思っております。

 大塚製薬のMRさん曰く、国内の臨床試験ではランダムに割り付けられたものの4 mg群にやや重症患者さんが多かった、ドロップアウトが多かったなどの理由で2 mgと有意差がつかずに承認されなかったと。

 なので、2 mgでもうひと息!という患者さんに日本で4 mgまで増量したら査定されてしまうため要注意なのです。

 しかししかし、大塚製薬は4 mgを諦めていない!と自分は勝手に思っています (あくまでも自分の推測です)。その理由が2つほどあるのですが、まずは添付文書の用法・用量の欄を見てみます。


〔用法・用量〕
通常、成人にはブレクスピプラゾールとして1日1回1mgから投与を開始した後、4日以上の間隔をあけて増量し、1日1回2mgを経口投与する。
《用法・用量に関連する使用上の注意》
A 本剤の1日量4mgを超える用量での安全性は確立していない(使用経験が少ない)。



では、非定型抗精神病薬の代表であるオランザピン (ジプレキサ®) ではどうでしょうか。統合失調症の部分だけ引用。


用法及び用量
通常、成人にはオランザピンとして5~10mgを1日1回経口投与により開始する。維持量として1日1回10mg経口投与する。なお、年齢、症状により適宜増減する。ただし、1日量は20mgを超えないこと。



 同じくリスペリドン (リスパダール®) の統合失調症の部分を。


用法及び用量
通常、成人にはリスペリドンとして1回1mg1日2回より開始し、徐々に増量する。維持量は通常1日2~6mgを原則として1日2回に分けて経口投与する。なお、年齢、症状により適宜増減する。但し、1日量は12mgを超えないこと。



 お分かりになったでしょうか。非定型抗精神病薬の添付文書にはしっかりと "1日量は○○mgを超えないこと" と記載されているのです。こう書かれると、超えた処方をしてはいけません (そりゃそうだ)。

 しかしながら、ブレクスピプラゾールにはその記載がありません! かつ、使用上の注意でわざわざ4 ㎎に言及しています。これってかなりグレーな記載で、非定型抗精神病薬、というか最近の薬剤にしては非常に珍しいのです。これが4 ㎎を諦めていないと思われる理由のひとつめ。ちなみに、"この量を超えて出すな" と書かれていなければ、通常用量の倍量まではおそらく査定されないだろうという暗黙?のルールがあります (その場合は "なお、年齢、症状により適宜増減する" という記載になっていますが、その一文がブレクスピプラゾールにはありません)。

 だからと言って「2 ㎎を超えるなって書いてないんなら超えて出しても良いんだろ」と考えて4 ㎎を処方すると今は査定されてしまいますのでご注意を。これは繰り返しの注意です。

 で、もうひとつの理由が、薬価なのです。

 ブレクスピプラゾールは2 ㎎という今のところの最大用量で509.2円になっています。ここが大きなポイントでして、この約500円というのは非定型抗精神病薬 (先発品) の最大投与量の "半分" の値段なのです。

 抗精神病薬の値段を釣り上げたことで有名なオランザピンは最大投与量が20 ㎎なのですが、先発品10 ㎎の薬価が489.9円に発売当時に設定されました。これは当時では恐ろしく高価だったのですが、この "最大投与量の半分でだいたい500円" というのが以降の抗精神病薬の薬価設定をする際の参考となったのであります。ただし、オランザピンは2016年に後発品が出たため先発品の薬価も下がり、今は10㎎では489.9円→345.8円になっています。

 新しい薬剤の一つであるパリぺリドン (インヴェガ®) は、最大投与量の半分である6 ㎎で465.7円となっています。これは後発品がまだ出ていないので薬価もまだこのままのはず。

 ブレクスピプラゾールの前に大塚製薬の看板商品だったアリピプラゾール (エビリファイ®) はどうだったのか。15 ㎎が最大投与量の半分なので、これは12 mg+3 mgになります。350.4円+97.1円=447.5円となりますね。ただし、アリピプラゾールも後発品が出たため先発品の薬価が下がり、今では15 ㎎を出そうと思うと241.1円+66.9円=308.0円となります。

 さて、アリピプラゾールの特許が切れて虫の息となった大塚製薬が会社の存亡?をかけて開発し送り出したブレクスピプラゾール。その薬価が安いはずはない! 開発費を回収し収益もV字回復を狙っているはずです。 もう一度薬価を見てみると


現状での最大投与量である2 ㎎で509.2円


 瀕死の大塚製薬が良心的な設定をするはずなく (?)、「ははぁ、これは4 ㎎を見越しての設定だな」と性格の悪い自分は邪推しています。自信をもって市場に出す薬剤を安売りする理由もないでしょうし。2 ㎎で手を打つのであれば、1 ㎎の薬価がこの価格になっていたはずです。

 例えば、後発品が出るタイミング (10年以上後なのか…?) に先発品だけ何らかの試験をするとか学会や臨床医からの要望として厚労省に掛け合うとかで4 ㎎に上げるとか…? そのタイミングだと、後発品は2 ㎎が上限のままで先発品だけ4 ㎎を出せるようになって、後発品に処方が流れるのを防げますしね。そこまで待たなくても年単位でラグを設ければ良いのかもしれません。いちおう、大塚製薬としてはまず双極性障害と大うつ病への適応を取ろうとしているみたいですが。

 今回は、ブレクスピプラゾールについてちょっと引っかかったことを記事にしてみました。こういう視点から薬剤を見るのも面白いかもしれません。というか、虫の息とか瀕死とか言うと大塚製薬に怒られるかしら、そろそろ。
Comment:0  Trackback:0
2018
05.01

レジデントのために、多剤併用について思うこと

 新年度も少し時間が経過し、精神科でもレジデントの先生がたが精神科病院の過ごし方に慣れてきた頃でしょうか。しかし、精神科病院における、特に慢性期統合失調症患者さんの薬剤治療。それは、大学病院で教わることとはかなり異なるもので、びっくりする先生も多いかなと思います。

 若手 (自分も含めちゃいますが) にとって、統合失調症患者さんへの抗精神病薬は単剤治療が原則と教え込まれています。しかし、ずっと入院している患者さんの処方を見ると、決してそうではない。周知の通り、多くの方は多剤併用となっています。

 この多剤併用を見ると、レジデントの先生は「これは何とかしよう! 単剤化できれば患者さんも変わるはず!」と思うことでしょう。というか、若手であれば一度はそう思ってもらいたいところであります。

 ただ、注意点としてはいくつかあります。たくさんあっても覚えきれないと思うので、ここでは5つを挙げておきましょう。

1. 患者さんがこの処方で良いと思っていることが少なからずある
2. 前主治医までの医者が悪気があって多剤にしているわけではない
3. 意外とこの処方で何とかまとまっている患者さんが多い
4. 無事に単剤化しても対して状況が変わらないことも多い
5. 減らす薬剤の量や速度が大きいと失敗することもある

 1.についてですが、処方された薬剤は常に医者と患者さんとの関係性の現れである、ということ。患者さんの中には、これまでの医者が出してくれた薬剤を、まだ主治医になって間もないペーペーの医者がいじることに不快感を表すかたもいます。昔の主治医との思い出が処方に残っているかもしれません。処方というのは、医者と患者さんとをつなぐものであり、そこへの配慮が必要でしょう。もっとも、医者とのつながりが処方でしかないのは味気ないので、日々の診察で人とのつながりを出していきたいところです。レジデントの先生は焦らず、まずは患者さんに会って自分を覚えてもらうことから始めていきましょう。その間に、昔のカルテを見たり看護師さんから話を聞いたりして、その患者さんがどういう生き方をしてきたのかについて知識を深めていく。患者さんとの診察はあまり長くしすぎず多少あっさりな感じで、少しずつ病状以外のことを聞いていく感じが良いでしょうか。それができてから初めて薬剤について聞いてみます (もちろん安定している患者さんが対象ですよ)。薬剤の変更に対して患者さんが拒否的であれば、いったん身を退きます。「私はこんな感じに思っているので、また気が変わったら教えてください」程度の言葉を残していくと良いかもしれません。そして、また時間が経ったら押しつけがましくなくさらっと聞いてみると非侵襲的かと思います。もちろん、看護師さんも「この処方で問題なく経過しているんだから、何でこの来たばかりの医者は減らそうとするんだ?」と思うことが多々あるので、すぐに薬剤を変えないのは彼ら彼女らとの関係を壊さないためでもあるのですが…。

 2.ですが、やっぱり患者さんの精神状態というのは揺らぎがあります。忙しいとつい薬剤に頼りたくなりますし、そう言えば受け持ち患者さんが多いと向精神薬を処方しやすいなんていう報告もありますね (Am J Psychiatry. 1994 Apr;151(4):580-5. PMID: 8147457)。そうやって悪戦苦闘をしていると、気がつけばアラ不思議、多剤になっていた…なんてことになります。ハロペリドール (セレネース®/リントン®) 12 mg/dayで頑張っていたけどちょっと興奮が続くからレボメプロマジン (ヒルナミン®/レボトミン®) 150 mg/dayを追加し、幻覚妄想が一時的に強くなったからリスペリドン (リスパダール®) を6 ㎎/day追加。しばらくは良かったけどたまに不眠や妄想が出てきて他の患者さんからも苦情が来るのでオランザピン (ジプレキサ®) を10 ㎎/day追加…。というのが起こります。昔のカルテを見ると意外にシンプルだったのが、ページをめくっていくと徐々に種類や量が増えていく。こういうのはザラですね。悪気があって多剤にしているわけではなかったのであります。1.と合わせて、"処方に歴史あり" とは良く言ったものです。

 3.は5.と少し重なるところもありますが、複雑怪奇な処方で何とか患者さんの症状が軽くなっているということもあるでしょう。カルテを見ると、単剤では歯が立たず割と早期から多剤になってそれで辛うじて保っていることが多いでしょうか。「こんな多剤、意味あるの?」と思ってちょっと減らしてみたらあれよあれよという間に状態が悪くなっていく患者さんもいます。まるで終盤のジェンガのような。これは不思議なのですが、昔の主治医が見せる素晴らしいウデなのだと思います。レジデントの先生がたは「クロルプロマジン (コントミン®/ウィンタミン®)を25 mg減らしただけなのに…」という嘆きをこれから経験するかもしれません。

 4.ですが、これはこれから数多く遭遇すると思います。じりじりと減らしてCP換算もだいぶ少なくなり種類もすっきりして、「これで患者さんの陰性症状もググっと良くなるだろうなぁ! いやぁ、いい仕事をした」と満足していたにもかかわらず、実際の患者さんの状態はピクリとも変化しない。多剤を見るとつい症状の多くが薬剤性に見えてしまうのですが、決してそうとは限りません。でも、減らして何も変わらないのであれば、大進歩!です。減量によって心血管リスクが低下したかもしれませんし、そのままだったら患者さんがいずれ多剤併用を重く感じてしまっていたかもしれません。そして、患者さんは言葉に出さないかもしれませんが、薬剤の量や種類が減ることは、自分は見捨てられていないと思うきっかけになるやもしれません (薬剤の変更は、1.で生じる気持ちとここで生じる気持ちの両方を産みます。関係性によってどちらがより強く出るかが変わるのでしょう)。また、身体が少し軽くなったと感じるかもしれません。レジデントの先生がたは薬剤を減らすことを理想化しすぎず、減らしても症状が変わらないというのを目標にし、ちょっと陰性症状や錐体外路症状が改善したら御の字くらいの気持ちで臨みましょう。

 5.については、過感受性精神病という言葉が有名になってきたのもありますね。薬剤でずっと受容体を遮断していると、生体側は受容体を増やす、すなわちアップレギュレーションで対応することになります。同じく刺激が続くとダウンレギュレーションが起こります。ちょっと減らすだけだったのが、相対的に大きくなるのです。そうなると、3.で見た「クロルプロマジン (コントミン®/ウィンタミン®)を25 mg減らしただけなのに…」という嘆きがここでも聞こえてしまいます。これが全員に見られるわけではないのですが、一部にそういう患者さんがいます。なので、ちょっと薬剤を少なくした際に大きく反応する場合は「ははぁ、受容体の数が変わっているな…?」と推測し、減量はほんのちょっとだけ、例えば細粒を使って少しずつ。そして、次に減らすのは数か月待っても良いくらい。あくまでもイメージですが、減らした後の薬剤に受容体が慣れるまで待つような。なので、レジデントの先生は「自分の代では完全に薬剤を整理できないかもしれない」と思っておきましょう。例を挙げると自分の医局では2年間レジデントとしてその病院で働くため、この2年で全部を何とかしようと思わないことです。次のレジデントの先生に託すような、そんな気持ちでゆったりと取り組みましょう。ま、この減量に失敗すると病棟の看護師さんから恐ろしいほどの白眼視を受けるのでありまして…。先述しましたが「これで安定しているんだから何で減らすんだ?」と思うわけです、看護師さんは (全員ではないでしょうけれども)。減らして症状が変わらないならまだセーフですが、悪化してしまったら「そら見たことか! この若造が!」とひそかに思うことが往々にしてあります。面と向かって言われはしないですが、言葉の端々にやっぱりね…(残念ながらかなり前に自分は言われたことがあります)。看護師さんの気持ちもごもっともなのでそれを批判するつもりはないのですが、レジデントの皆さんは十分に注意しましょう。看護師さんとの関係性はとっても重要です。自分はこれで手痛い過去があるため、皆さんには同じ経験を味わってほしくありませぬ。サウザー様には怒られるかもしれませんが


退く!媚びる!省みる!


 気持ちが大事です、はい (あくまでも気持ちね)。

 そんな感じで5つまとめてみましたが、いかがだったでしょうか。個人的には、一人でうんうん悩むよりも薬剤師の先生としっかり相談しながらやってほしいと思います。薬剤師の先生は自分たちよりもよっぽど薬剤について詳しいですし、そうあるべきとも思います。薬剤の知識に関して、薬剤師の先生は医者に負けてはいけない。遥かに凌駕する存在であってほしい。だって名前が "薬剤師" ですし。薬剤のプロですから、その自負を持ってもらって、医者はその知識に大いに頼りたいものです。最近の薬剤師の先生はものすごく薬剤関連の論文のエビデンスに詳しくて、教えてもらうこともたくさんあります。「薬剤はお願いね!」と薬剤師の先生にお任せできるのが理想的。協同してやっていきましょう!

 ちなみに、多剤併用に関してはそれ自体決して悪くないんじゃないの? とも言われます (World Psychiatry. 2017 Feb;16(1):77-89. PMID: 28127934)。ただ、質の高い論文が少なく、またカッコ内の文献ではTable 1を見ると2剤なんです。そのため、精神科病院で見かける4剤や5剤ではどうなのかはちょっと分かりかねます。上記3.のような患者さんがいるのも事実でして、必要あっての多剤は確かにあるかもしれません (それがどのくらいの数かは不明)。しかし、しかしです。多剤の場合はどの薬剤がメインに効いているのか分かりませんし、結果的にCP換算で多くなってしまい、高プロラクチン血症になっていることも多いです。薬剤相互作用も特に定型抗精神病薬は良く分からないものがあり、今の患者さんにとっては何ともないかもしれませんが、肝腎機能が落ちてきた時、また身体疾患によって何か他の薬剤が入った時などはちょっと怖いところがあります。

 よって、減らせるのであれば減らすに越したことはないですし、これからの患者さんは何とか単剤 (せいぜい2剤?)でやっていきたいですね。そして、減らす場合もしっかりと患者さんの同意を得てからです。減らしていく中でも、患者さんに具合を聞きながら。「減らすよ」と一回言ったきりではなく、適宜その状況をお伝えする。患者さんにも「眠れなくなったり頭の中が忙しくなってきたりしたら教えてくださいね」と、関わりをお願いをします。処方と服薬というのは、患者さんと医者との関係性を表すものでもあり、お薬を出すということ、そして増やしたり減らしたりすること、これらを患者さんがどう感じるかというのを考えていくことも大切でしょう。
Comment:0  Trackback:0
back-to-top